珊瑚のリング
吉本ばなな
私の中指にいつも光っている珊瑚のリングは、母の形見なのだ。
センスがよかった母は、おばあちゃんの形見の珊瑚のリングを、自分でデザインして知り合いの工房に持って行って、作り直してもらった。
見るからに古臭かった18金と楕円の珊瑚の、たとえばちょうど沖縄の国際通りの古いお店の陽に焼けたウィンドウの中に何十年も置いてあるようなデザインだったそのおばあちゃんの時代のリングは、母のセンスでモダンなものに生まれ変わった。
見せてもらった瞬間の驚きを覚えている。
楕円の珊瑚のまわりには小さなダイヤモンドが円形に置かれて、ちょっとUFOのような感じだった。
「すごい、お母さん、ほんとにかっこいいね。同じリングとは思えない。おばあちゃんには前のデザインのほうが合ってたけど。」
私は言った。
「私が死んだらあんたにあげるわよ。」
母は笑った。
まさかそれがほんとうになってしまうなんて。
長く陶芸をやっていた母の指は、土をこねていたのでかなり無骨で太かった。母と同じ指にしたかったけれど私には少しだけサイズが大きかったから、やはり母から譲り受けた父との結婚指輪、細くて小さなダイヤがついている少しサイズが小さいものを重ねづけして落とさないようにしている。
「お前と結婚した覚えはない。」
実家に行くと父が笑いながらそう言う。
「薬指じゃないもん。」
私は笑う。
お仏壇の中では母の写真が笑っている。
徹夜して梱包した陶器を納品した帰りにくも膜下出血の発作を起こしてガードレールに激突するなんて、ほんとうにバカなお母さん。
このやりとりをするたびに当初は手を握り合って泣いていた私と父だったが、最近は笑顔で終わるようになってきた。月日が私たちをそうさせてくれたのだ。
祖母、つまり母の母が亡くなったとき、父の転勤でちょうど私たち家族は香港にいた。
父の会社が貸りてくれたマンションは値段も階数も高いのにとても小さな部屋で、家族3人くっつくように暮らしていた。
まだ中学生だった私、珍しいことだらけのその駐在には良い思い出しかない。
ふつうそんなふうに仕事で暮らしている家族は住み込みのお手伝いさんを雇うのだが、この小さな部屋に他人と暮らすのはいやだと言って、体を動かすのが好きな母は自分で家事炊事をしていた。
マンションの中でカジュアルすぎる、とても奥様とは思えない格好をしている母はしょっちゅうメイドさんに間違えられて笑っていたっけ。
私たちが住んでいた地域は坂道ばかりで、エスカレーターを駆使してみななんとか登らないで済むように移動していた。いちばん家から近いスーパーに行くにもすごい階段をふたつぶんくらい上り下りしなくてはいけなくて、私のふくらはぎもすっかり太くなった。
物価が高いから安いマーケットまで足をのばして、丸ごとの魚をさばいたり、鶏のよくわからない部位を買ってはなんとか調理したり、いつも騒ぎながら母を手 伝っていて、楽しかった。
祖母が闘病の果てに意外にあっさり亡くなってお葬式で一時帰国し、私を放っておけずにまたすぐ香港へ帰らなくてはいけなかった母に、祖父はとりあえずと言ってその指輪をくれたそうだ。祖母が亡くなったとき身につけていた指輪。
1人娘だった母は、その後で私の生活をひとりでもいられるようにちゃんと整えてからまたしばらく帰国して、保険の書類や相続について祖父を手伝った。
祖父母は小さい家で 2人暮らしをしていたが、それでも祖父がひとりでこんな広い家はいらない、思い出もつらすぎると言ったので、その家を売却することにして、住んでいた駅の反対側に小さな部屋を借りた。引っ越しのあたりまで手伝って、母は香港に戻ってきた。
しばらくしたある日のこと、いつも朗らかな母が電話をしながら、
「なんてことを。」
とだけ言って、涙をこぼした。
私はびっくりして近くに行った。
「でも、どうにもならないよね。わかった、お父さん、いいよいいよ。」
母は言った。
電話を切ってしばらく、母は泣いていた。
「どうしたの?」
私は言った。母は涙声で、
「またお正月に戻ってお母さんの部屋をゆっくり片そうと思っていたのに、お父さんったら、すぐ売るために私に黙って家を壊して更地にしたっていうのよ。遺品は業者を呼んで処分したり、売ったって。お母さんのもの、みんななくなってしまった。金目のものなんて一切持ってない慎ましい人だったし、惜しいとか、そういう意味で泣いてるんじゃないのよ。自分で思い出をたどりながら、ゆっくりやりたかったの。でも、今こうして外国で暮らしているんだから、しかたないよね。お父さんはお母さんのものならなにを見てもつらかったんだと思うし、そういう考え方の人もいるしね。」
と言った。
「思い出は消えないから。」
私は言った。
私にだって、もちろん仕事はある。編集の仕事をしているのだ。
忙しいときは帰りも遅くなるし、仕事のつきあいもある。
1人暮らしの部屋も決してきちんと整っているとは言えない。
しかし、母が亡くなったときに何回も思い出したのは、あの「なんてことを」という言葉の響きだった。
もしかしたら、母の悔しかった思いまでいっぺんに供養できるのではないか?という可能性を思いついてしまい、「ちょっと待てよ、私だってそんなにひまじゃないんだよ」とつぶやいたものの、定年退職をして週に2日しか仕事に行ってない父、淋しい1人暮らしになった父にとっても、それはいいのではないか?と思った私の行動、それは、仕事が比較的ひまな水曜日の夜は実家で父と食事をして、母の部屋とキッチンで、母の遺したものをこつこつと片づけるということだった。
着物は売り、私にも着られそうなものは私がもらい、傷んでいるものはリメイクしてスカートやバッグにした。自分でデザインをして、母が珊瑚のリングにほどこしたように生まれ変わらせた。母の作った器はきれいに分類して、キッチンの棚に入れた。これまで両親が使っていたわりとどうでもいい食器は、ネットで売ったりバザーに出した。これからは母の作った器でごはんを食べようと父に提案した。父は食洗機に入れられないから面倒だと不満げだったが、私は強引に決行した。いくつかは私のちっぽけなワンルームの部屋に持っていって、大切に使うことにした。
水曜日に会えなくなって学生時代からの恋人とはちょっと気まずくなるし、たまった仕事を週末に持ち込むから寝不足になるし、体はいつも痛いし、なにより、母の匂いのするいろいろなものたちに囲まれて、涙がいくら流れても止まらなかった。仕事で疲れているのに、さらに疲れて悲しくなるとわかっていることをどうしてわざわざするのだと同僚にも言われた。
でも私はもくもくと、それこそブルドーザーのように行動した。
母のクローゼットには、母のいちばん好きだったワンピースだけそっと遺した。
ジュエリー類は、いくつかを私がもらって、あとは母の友だちにひとりひとりちゃんと会って、母の思い出話をしながら、毎回泣きながら渡した。
ついに母の部屋がそのワンピースのようないくつかの思い出の品を残してすっきりとしたとき、それにはなんと2年もかかったのだが、私の中にはなにかしっかりした感覚が残っていた。
あのとき母にできなかった、健やかな時間の使い方をしたという感覚だった。
今でも、父とは1週間に一度は必ず食事する。私が父の食べられるものを作り、母がいたときと同じように食卓に向かい、母の作った器で。
それが習慣になってしまったのが、いちばんいいところかもしれない。
恋人も友だちも同僚も「あ、今日は実家の日ね」という感じになってきた。
もちろん現代社会で働いている私、決してのんびりはしていないので、きれいごとばかりではない。しかし、少しだけ時間をゆっくりとさせる大切な魔法を私は母から受け取ったような気がする。
いつか父も去るだろう。私だって、もちろんいつまでもこの世にいるわけではない。
でも、だいじにしていたものが残って、それを新しい使い方で使って、命がつきるときまでそれが続いて。その一部をもしかしたら私の子どもや、その子どもが使って。私に子どもがもしいなくても、必要としている誰かが使って。
本格的に壊れたり朽ちたりするまで、だいじに手入れをしてその人の生活の一部になって。
そういう時間の使い方を人もものも取り戻せたら、身の丈に合った健やかなこの気持ちが自分の周りにも満ちていくような、そんなイメージがある。
母の遺品を整理して、泣いて泣いて、変なもの(いやらしいものとかではなく、わけのわからない人形だとか、父以外の人からの昔のラブレターだとか、本の間に挟んで忘れたであろうへそくりだとか)もたくさん見つけてはひとつひとつ整理し、食器棚の上に放置されていた重い鉄鍋をバザーに出すために磨いてはまた泣いて、いろんな服に穴が開いてないか、シミはないかチェックして。そんなことをしているうちにいつのまにか、私は使ったはさみをそのへんに投げたり、服をひっぱって洗濯バサミから外したりしなくなった。うっかりコップや皿を割ったりすることも減った。そんな自分に気づいて微笑んだりする。
そんなとき思い出すのはいつも、中学生のときに母と手をつないで坂の上から街を見下ろした頃の思い出。光り輝く異国の街、読めない看板の波の中で、母の温かい手にそっと輝いていた、珊瑚のリングの映像なのだった。