花魁櫛
筒井康隆
実家の母親が死んだので、トラック一台分の遺品がアパートの一室、狭いわが家にどかっと送りつけられてきた。遺族はおれたち夫婦だけだったのだ。「いらないわよ。邪魔だわこんながらくた」妻は眼を吊りあげて罵った。妻の家はもと江戸の旗本であり、妻はそれが自慢で、何かと言えばおれの親族を馬鹿にする。「そりゃまあ、確かにがらくたばかりだが、だけどこの仏壇はどうする。こればかりはおれが引き継がないわけにはいかんだろう」
遺品の中で最大のものが仏壇だった。そして仏像はじめ位牌などの仏具が入ったこの仏壇だけは紫檀の立派な代物で、それは妻も認めぬわけにはいかないようだった。
「ねえ。この抽出し、何が入ってるの」そう言いながら仏壇のいちばん下にある抽出しを開けた妻は、何やら高価なものが入っていそうな桐の箱を取り出した。開けると、中には鼈甲の櫛や笄などの洒落た髪飾りがひと揃い入っていた。櫛は半月型の大きなもので、笄は端が扇形の、いずれも妖しいほどに艶っぽく光っている品だ。
「凄いぞ。これはみんな鼈甲と言ってな、タイマイという亀の甲羅から作るんだが、今は確かワシントン条約で輸入が禁じられているから、この鼈甲だってずいぶん高額になっている筈だ」
妻は疑わしげな顔で「へええ」とおれを見てから、それでも高額ということばに反応して眼だけはぎらりと光らせた。「じゃあ、早いとこ売っちまいましょう」
何度か古道具を売ったことがある古物商を電話で呼び出し、がらくたの整理と買取りを依頼した。如何に妻が邪魔にしようと、さすがに仏壇だけは売れなかった。古物商は他のものには目もくれず、ひたすら鼈甲の髪飾りだけに執着した。「本鼈甲ですな。おばあさまがお使いだったものでしょう。メルカリならひと揃いで三万円、といったところですかね」
ちょっと安いなと思ったので、他のがらくただけを数千円で売り、髪飾りセットだけは様子見にしばらく古道具店へ預けておくことにした。何故か妻が汚らしげにして嫌うので家に置いておけなかったのだ。
次の日、古物商が申し訳なさそうに電話をしてきた。「とんだ眼鏡違いでした。調べましたところ、あれは明治時代以前のものでした。百年以上経った鼈甲細工には骨董的価値がありますので、あれは三十万円以上になります。その辺のお値段なら私どもで引き取らせていただきますが」
その話を妻にすると、彼女はまた眼をぎらぎらとさせた。「まだよ。まだ売っちゃ駄目よ。もっといい値段で買うという人がきっと現れるわ」
その後しばらくして古物商の男は、あの鼈甲細工をたまたま装身具専門の鑑定士に見せたところ、なんと花魁櫛などの鼈甲細工師として有名な鹿川古堂の作と判明、三百万円はする優れものらしいと電話してきた。
「えっ。それじゃあなたの先祖って、花魁だったの。いやねえ。花魁って遊女でしょ。一種の売春婦じゃないの」汚らしげにそう言った妻は、だからと言って早く売ってしまおうと急かすわけでもなく、逆にますます欲が出てきたようだった。「なんだかひと桁ずつ値上りするじゃないの。まだよ。まだ売っちゃ駄目よ。そうだわ。『なんでも鑑定団』に出して品定めして貰いましょう」
「お前はいちいち言うことがおかしいぞ」おれはうんざりした。「まず、花魁ってのは最高の地位にある遊女で、そこいらの売春婦などではない。それに『なんでも鑑定団』に出たりしたら、おれたちの先祖がお前の嫌いな遊女だってことがわかってしまうぜ」
世間体と欲の板挟みにあった妻は、しばらく狐が憑いたような眼をあたりにきょろきょろさせていたが、やがて決然としておれに言った。「遊女だったのはあなたの先祖よ。侍だったわたしの先祖じゃないわ。だから『なんでも鑑定団』にはあなたが出るのよ」
そしておれはテレビに出演した。特に江戸時代の小物が専門という筈実という先生が前以て鑑定してきてくれたらしく、おれの出品物を絶賛した。「鹿川古堂の作品に間違いございませんね。しかもこの髪飾りをつけていたのは調査によって江戸時代の花魁、時代小説にも登場するあの有名な筑紫太夫であったことがわかっています。浮世絵にも、歴史上の人物とも言うべきこの太夫が、この櫛笄を挿している姿が描かれているんです」鑑定結果、価格は三千万円であった。しかも好事家ならもっと高額で買うかも知れないという話である。
「まだ売っちゃ駄目よ」眼を吊りあげた妻が言った。「その、好事家という人たちがもっと値を吊りあげてくれるわ」
おれは妻の欲深さに呆れた。「お前なあ、そんな高値で売って、世間の評判にならないわけ、ないだろうが。お前の嫌いな遊女が先祖にいるってこと、知られていいのか」
二律背反。妻は恨めしげにおれを見て沈黙した。
おれの勤めている都心の会社に、古物商の男はそれから毎日のように電話してきた。テレビを見たマスコミの連中が来るようになった上、いろんな人からあの花魁櫛のセットを売ってくれと次第に高値を提示され、中には億という金額をちらつかせてくる人もいるということだったが、家に帰ってからそれを妻に話しても、彼女は「駄目」「駄目」と、ただかぶりを振るばかりだった。
その日、ただごとならぬ様子で古物商が会社に電話してきた。「奥様がさっき来店されて、否応無しにあの花魁櫛のセットを持って帰られました。様子がおかしかったのでお電話したのですが」
悪い予感に襲われ、おれはあわてて家に戻った。玄関のドアを開けると、髪にあの髪飾りすべてをつけ、娘時代の振り袖姿で厚化粧をした妻がそこに立っていて、虹色の眼でおれに笑いかけた。「わたし、筑紫太夫よ」