COLUMN

ママを泣かせる花瓶

eri|えり 〈連載〉わたしとモノの交差点 

『これ壊れたらママ泣いちゃう』
そう母からずっと言われ続けているこの古い花瓶は両親から譲り受けたもので物心ついた頃から我が家で使われていた。
大切なものほどうっかり壊してしまう私にしては、今まで欠けることもなくずっと日常的に活躍し続けてくれている。
きっと『ママ泣いちゃう』という言霊が効いているんだろう…。

いかにもミッドセンチュリーという感じの手書きの図柄と色使いでぽってりと分厚くて土の気配を感じる、洗煉、というよりは温かみがあるクラフト。
花瓶自体の個性が強い割にどんな色、形の花でも受け止めてまるで花瓶と花が一つの作品であるかのような顔をするのがこの花瓶の面白いところで、花を買ってきたらとりあえず放り込んでみている。

先日両親とこの花瓶の話をしたら
『当時住んでいたニューヨークのフラットで生まれてすぐのeriとチューリップをいけたこの花瓶と一緒に写真を撮ったの。当時は家に暗室があって、パパがその写真を現像したんだよ』
と38年生きてきて初めてのエピソードを聞かされた。
その写真の存在は知っていたけど、あれは父が焼いたものだったのかあ。
(というか家に暗室あったんだ…へえ)

花瓶というモノ一つに様々な話が語られるというのは面白い。
これはもちろん花瓶に限らない。
モノに人間が宿らせる記憶や感情の投影がそこに無象の質量を与えるからだ。
本来、物理的にはモノはモノでありそれ以上も以下もないはずなのに人間という想像を得意とする生き物はどんどん意味を付け足してはそこに一喜一憂し、悲喜こもごも感じ取り、ノスタルジーに浸ったりそこに金銭的価値を見出したりもする。
でも最近はどうだろう。語ることができるモノが減ってきてはないだろうか?
大量に作られ、誰の感情も投影されず、無意識に近いような形で捨てられていくモノ、モノ、モノ。私たちのあの想像力はどこに行ってしまった?
この新自由主義的な社会システムが大きな顔をした世の中ではモノはモノのまま、右から左に流通されすぐに消え去りまた次のモノが生み出される方が好都合なのだ。だけど地球環境がそれによって著しく破壊され、かつ恐ろしいスピードで加速していっている今、我々は結局何を得られたんだろ。

私は古着屋の娘なので、古いものと暮らすのが当たり前だった。
誰かが使っていたものをまた使うのが普通だった。
でもそれで充分だったじゃないか。

なるべく新しいものは買わない、使わない、作らない、そして簡単に捨てない。
それがこれからの常識となると言われ始めたこの世の中で、そう、モノはもっと語られなきゃいけないんだ。
いつつくられたの? 誰がつくったの? なんでここにあるの? どこが好きでどこが面白いの?
自分の持っているものを見渡してみよう。
自分の心で言葉で語れるものがどれだけあるかを。
そして語れないものより、語れるものにより親愛を感じているということに気づこう。
 (12605)

私もこの受け継いだ花瓶のような、私にしかない「モノガタリ」を宿すモノだけに囲まれて生きていきたい。それが私にとっても住むこの星にとってもベストな選択だと思うから。

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