いい人の手に渡れ!

いい人の手に渡れ!

伊坂幸太郎

「それ、捨てちゃうの?」息子が目の前に立ち、信じがたいものを目にしたように言ったのは、2ヵ月前のことだ。
 小学1年生にとって夜の1時はずいぶん深い時間帯だから、起きてはこないはずと甘く見ていた。たまたま目が覚めたのだろう、明らかに寝惚けている。
 私は革ジャンを畳み、梱包しようとしていた。息子は、この革ジャンをなぜか気に入っており、「お父さん、出かける時はこれを着て」と希望することが多く、私もそれなりに大事にしてきた。
「お金が必要なんだよ」正直に話した。
「そんなにお金ないの?」
「明日のごはんが食べられない、というほどではないけれど。太ってきてもう窮屈だし。ちゃんと着られる人にもらわれたほうが、いいだろ」
 まだ納得できない顔で息子は泣き出す寸前だった。ママもフリーマーケットが好きだったじゃないか、とも言いたくなったけれど、本当に泣かれてしまったら大変だ。
「もう買ってもらったから、送らないと」
「誰が買ってくれたの?」
 出品側も購入側もお互いには個人情報を明かさない形の匿名取引を選んだため、実のところ、購入者がどこの誰なのかは分かっていなかった。
 あまりに彼が落胆しているものだから胸が痛み、気づけば私は、「本当は内緒なんだけれどな」と人差し指を立てていた。「戦士が使うんだ。魔導士メルクカリウスに立ち向かうために」何じゃそりゃ、と私は内心で呟いているが、ここでやめるわけにもいかない。「このままでは、メルクカリウスの力で世界が壊れてしまう」
 息子の瞼が先ほどよりも開いた。
 
 このままでは、メルクカリウスの力で世界が壊れてしまう。剣を構えた彼はそう心を引き締めた。
 魔導士メルクカリウスの神通力で動かされた泥剣士が、襲い掛かってくる。この沼の近くで20ほどの泥剣士に襲われたが、どうにか倒し、残りはこの1体となった。体力と体温が失われ、てこずっている。振り下ろされた剣を自らの剣で払ったところ、反動で転んだ。地面に手を突く。背中に気配を感じる。目の前の沼の表面に、泥剣士が大剣を振り翳す影が映っていた。
 やられる、と目を瞑りそうになったところ、10メートルほど離れたところにいる仲間が、両手を天に向け、スパークを飛ばした。稲妻めいた光が、その腕から泥剣士へと飛ぶ。直後、泥剣士は後ろにひっくり返り、破裂した。
 やった、と彼は思うが沼に足を取られ、その場に倒れていた。先ほどの仲間に引っ張り上げられると、体中が泥にまみれている。
 全身を確認し、「この服はもう使えない」と嘆く。破損はないものの、泥がへばりつき、これでは塗布した防御薬も意味がなくなってしまう。
「新しい服がないと困るぞ」
「目をつけていた服がある。それを入手するよ。革製で、薬が沁み込みやすそうだった」
 
 息子が目を輝かせて私を見て、それから梱包中の革ジャンに一瞥をくれた。「これがその?」と言いたいのだろう。
 私は意味ありげに、深くうなずく。
「防御薬を塗れば、攻撃を弾く服になる」
「じゃあ、早く送らないと」
「作業を終えないといけないからおまえは早く眠るんだぞ」
 息子は、睡眠こそ使命、といった真剣さで布団へと戻っていった。
 
 我ながら良い子供騙しだったな、と満足しながら梱包作業をやり遂げた。
 が、どのような薬にも副作用はある。それ以降、ことあるたびに息子が、「どうなったの?」と訊ねてくるようになってしまった。
 あの戦士はどうなったの? 泥の敵との争いは?
 仕方がなく私は、魔導士メルクカリウスが支配する世界での話をでっち上げた。でたらめにすぎなかったが、喋っているうちにそれなりに世界観の細部ができあがる。魔導士メルクカリウスは神殿にいる、だとか、泥剣士がうじゃうじゃいる、だとか、戦士はメルクカリウスが奪った鈴を取り返そうとしていて、その鈴の美しい音が世界を平和にする、だとか。
 平和とは何なのか。誰かにとっての幸せは、誰かにとっての不幸せ、ということも多い。私はふとそんなことを考えてしまう。
 それから数日が経つと、息子が今度は、「また送りたい」と言ってきた。戦士に救援物資を、第2便を送ってあげたい、と。
「無駄なものを送っても意味がないぞ」面倒臭いものだから私は彼を宥め、言いくるめて誤魔化そうとしたのだけれど失敗する。
 段ボールを用意し、そこに不用品を詰め込ませることになった。
 息子は張り切り、壊れた懐中電灯や、輪ゴムの束といったものを入れはじめる。妻が使い切ることができなかった、何箱ものあぶら取り紙を持ってきた時は息子も悲し気だったが、その感情を振り払うように、「そうだあれもあった!」と快活に言い、幼稚園児のころに集めた大量のどんぐりを持ってきた。
 ガラクタセットとしか名付けようのないもので、出品すること自体が何らかの罪に問われそうな気にすらなる。私は知恵を絞り、商品説明を入力した。最悪の場合、売れたことにすればいい。
 
 泥剣士たちが彼を取り囲んでいる。それぞれが剣を持ち、じりじりと近づいてくる。
 石で組まれた、巨大な神殿の最深部だ。
 まずいな、と彼は焦る。このまま一斉に剣を振り下ろされたら、護身の革衣を着ているとはいっても無事ではいられないだろう。
 あと少しで、魔導士メルクカリウスのもとに辿り着くというのに、と彼は舌打ちをしたくなったが諦めてはいなかった。
 息を殺し、敵の動きに集中する。神経の糸を周囲に張り巡らせる感覚だった。今この時、というタイミングを狙い、腰に手をやる。ベルトに差していた懐中電灯を強くつかんで、掲げた。天井に向かい一筋の光が伸びるため、泥剣士たちの視線と意識が、吊り上げられた。
 彼は隙を逃さず、剣で、宙を水平方向で輪切りにするかのように円を描く。
 泥剣士たちは破裂するように崩れ、倒れていく。
 
 という話を私は今、ファミリーレストランの席で向き合う息子に話したところだ。
「懐中電灯、役に立ったんだね。あぶら取り紙は?」
「仲間が杖を振った途端、折り紙の鶴の群れみたいになったんだ。入り口が塞がれていたから、その鶴たちが、彼を神殿の高い場所にまで連れて行ってくれた。敵から浴びた泥を拭くのにも使えただろう」
 正直なところ、あの、「不用品詰め合わせ」が購入されたのは驚きだったが、もっとびっくりしたのは、購入したのがやはり、革ジャンの時と同じアカウントだったことだ。そんな偶然が? と驚いたものの、そういうこともあるのかもしれないな、とは受け止めていた。これは、息子への作り話にも俄然、リアリティが出てきたぞ、と思いもした。
「どんぐりは?」息子が訊ねてくる。
「え」
「どんぐりは何に使ったのかな」
 税金の使い道を追及するかのような細かさだな、と私は苦笑する。スマートフォンでネット検索したところ、「解毒作用がある」といった言葉が出てきたため、「戦士が毒の矢にやられた時、どんぐりを煮込んだ水で治ったんだよ」と話してみる。
 それから私たちは飲み物を汲み直すために席を立ち、ドリンクバーのコーナーに向かったのだけれど、途中で息子が私の服をくいくいと引っ張ってきた。何事か、と彼の視線の先を追うと、会計をしている男性の姿がある。
 知り合いだろうか? 後ろ姿なものだから分からない。
 はっとしたのは、その後だ。男性が羽織っているのは、見覚えのある革ジャンだったのだ。背中のデザインがそっくりだ。
 あの人が買ってくれたのかな? 息子が小声で言ってくる。
 かもしれない。革ジャンの袖には、見覚えのある形の傷も見えた。ずいぶん身近なところに購入者が。
 革ジャンや家の物が、どこかの戦士を救う大事なアイテムになった、という想像を楽しんでいたのに、急に現実を突きつけられた。息子ががっかりしているのではないか、と心配になる。このファミレスはあっちの世界と交差するポイントなんだ、と設定を加えるべきかと思ったが、意外にも息子の表情は明るい。購入者と遭遇した偶然に喜びを覚えているのだろうか。彼は彼なりに、空想話を楽しんでいただけなのかもしれない。
 会計を終えた男が出口方向に歩いてくる。こっそりと目をやれば若い男で、二枚目に分類されるように見えた。革ジャンも似合っている。あれが私が出品したものだとしたら、いい人にもらわれた、と思うべきだろうか。
 男が通り過ぎた時、革ジャンのポケットから物が落ちる。反射的にさっと屈んで拾い上げると、例の木の実だったものだから、私は驚きつつも笑った。覗き込んできた息子も目を丸くし、僕のどんぐり、と小声で洩らした。
 男はそれを受け取り、息子と私を交互に見た。「助かりました」と言う。
 あまりにまっすぐお礼を口にされて、少し気恥ずかしかった。いえいえ、と視線を伏せると男のベルトに懐中電灯が挟んであるのが目に入った。どういうセンスなのか、と苦笑したくなった。息子のほうは興味津々なのか、じろじろと観察している。
 宙を飛んでいくものが視界の端に見えたのは、グラスを機械に置こうとした時だった。蛾や蝶のような虫に思えたが、その割には直線的な飛行で、気づいた時にはすでに消えている。
 グラスに向き直ったところ、息子が、「今の」と声を高くした。「折り紙の鶴だね」
 何を馬鹿なことを、と私は言いかける。
 男が店を出て行く。美しい鈴の音が鳴り、私と息子の目が合った。

伊坂幸太郎

伊坂幸太郎 ( いさか・こうたろう )

1971年千葉県生まれ。東北大学法学部を卒業後、2000年『オーデュボンの祈り』で新潮ミステリー倶楽部賞を受賞しデビュー。04年『アヒルと鴨のコインロッカー』で吉川英治文学新人賞、「死神の精度」で日本推理作家協会賞短編部門、08年『ゴールデンスランバー』で山本周五郎賞と本屋大賞、14年『マリアビートル』で大学読書人大賞を受賞。最新刊『逆ソクラテス』が集英社より発売中。

(写真:三谷龍二)

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