人間の友

人間の友

三浦しをん

 俺は薄桃色のうさぎだ。名前はまだない。
 神奈川県内にある小さな一戸建てのリビングで、ピンクの不織布の袋から取りだされた俺を、その家のお母さんとお父さんは「あらま」「こんな偶然って」と苦笑いで眺めた。
 二人が少々困惑気味な理由はすぐにわかった。ちょうどいま、俺とまったく同じ姿形の、しかし水色のうさぎが、青い不織布の袋から取りだされたところだったからだ。
「よう、きょうだい」
 と俺は水色に言った。
「工場以来だな」
 と水色は俺にうなずきかけた。
 俺たちはリビングのソファに並んで座ることになった。お母さんとお父さんは、「私たち気が合うね。同じプレゼントを選んじゃうなんて」「うん。でももうちょっと打ちあわせしておけばよかった」などといちゃこらしておったが、
「リサ」
「リサちゃん、おいで」
 と呼びかけた。すると、ちょっと離れた床にお座りしていたよだれまみれの赤子が、満面に笑みを浮かべ、はいはいで猛然と近づいてきた。リサちゃんとやらは、「どっちがい……」と言いかけたお母さんの言葉を最後まで聞かず、ちっちゃな手をソファにのばして水色を引きずりおろす。
「ご愁傷さまだ」
 リサちゃんに抱えこまれ、さっそく耳をしゃぶられている水色に俺は言った。
「いや、いいさ。かわいいもんだ」
 水色はまんざらでもなさそうだった。
「ほらね、女の子ならピンクっていう発想が古い」
 とお母さんが言い、
「そっか、リサは青が好きか」
 お父さんは自分が買ってきた俺が選ばれず、やや肩を落とした。「こいつはどうしよう」
「リサは青いほうを気に入ったみたいだし、同じものがあってもね……」
 お母さんは迷う様子で、俺の頭を優しくなでてくれた。「かわいがってくれるひとがいるなら、引き取ってもらおうか。袋から出しただけで新品同然だし、だれか手を挙げてくれるかも」
 そういうわけで数日後、俺は再びピンクの不織布に収められ、配送会社のトラックに揺られることになった。お母さんは俺を小ぶりの段ボール箱に丁寧に入れるまえ、
「元気でね」
 と言った。
「ああ」
 と俺は不織布越しにうなずいた。「短いあいだだったが、ありがとな」
 ついでに、お母さんの隣で箱を覗きこむリサちゃんと、リサちゃんに大切そうに抱きこまれている水色にも挨拶した。
「リサちゃん、大きくなれよ。水色、リサちゃんを頼んだ」
「あー」
 とリサちゃんは言い、
「任せろ」
 と、水色は耳をしゃぶられながら力強く答えた。「おまえも幸せにな、きょうだい」
 どうだろう。リサちゃんに選ばれた水色のように俺もなりたいものだが、こればかりはなんともしょうがない。俺たちの運命は人間の手に委ねられている。
 
 俺を引き取ったのは、東京都内のワンルームマンションに住む一人暮らしの若い女性だった。
 休日の午前中、不織布の袋から登場した俺を見て、
「おー、かわいい!」
 と彼女は歓声を上げ、ちゅっちゅと俺の顔にキスの雨を降らせた。やめなさい、リサちゃんならまだしも、きみはもう大人だろう。あと、段ボールと不織布を片づけたほうがいい。ただでさえ狭い部屋なのに、足をすべらせたらどうするんだ。
 俺の思いは通じず、彼女はふんふん鼻歌を歌いながら、俺をタンスのうえに載せたり、ベッドに横たわらせたりしはじめた。吟味が重ねられ、最終的に俺はベッドの横にある出窓に座ることになった。やっと落ち着けた、と息をついていると、彼女は小さなキッチンでコーヒーをいれ、フローリングの床に腰を下ろしてスマホをいじりだした。
「かわいいうさちゃんが届きました。迅速なご対応、どうもありがとうございます、と」
 どうやらお母さんに一報を入れているらしい。スマホをローテーブルに置いた彼女は、振り返ってベッドに半身を乗りだすようにし、窓辺にいる俺をにこにこと見上げた。
「これから仲良くしようね」
 そっと右手を握られた俺は、うむ、とうなずいた。それはやぶさかではないが、とにかく段ボールと不織布を片づけたほうがいいぞ。

 しばらくのあいだ、彼女の名前がわからなかった。なにしろ一人暮らしだ(俺はいるが)。だれも彼女の名前を呼ばない。
 平日は会社に出勤するらしく、彼女は慌ただしく食パンなどを食し、超速で着替えと化粧をして部屋を出ていく。夜は疲れた様子で帰ってきて、パスタを茹で、あるいは、たまに思い出したように十穀米を炊いたりもし、テレビを見ながら適当に食す。
 俺は日中、放っておかれるわけだが、さびしくはなかった。彼女は「いってきます」と「ただいま」の挨拶を欠かさなかったし、家にいるあいだはしょっちゅう俺に話しかけてきたからだ。内容はといえば、会社の上司に対する愚痴だったり、買ってきた服を部屋で試着してみての感想の要求だったりと些細なものだったが、俺は「大変だな」とか「うんうん似合うぜ」とか傾聴に努めた。彼女に、「ねえねえ、うさちゃん」と声をかけられるのを、俺はきらいではない。
 それに彼女は、出かけるときは必ず、俺を窓の外のほうに向けて座らせてくれる。おかげで道を行き交うひとや車、空を飛ぶ鳥などを眺められて、退屈しない。
 近所の小学校に通う子どもたちのあいだで、俺はちょっとしたアイドルだ。窓辺にいる俺を指差したり、手を振ってきたりする子どもに、俺も気づかれぬ程度にそれとなくうなずきかけてやる。まあ、子どもたちに人気なのは、俺の右耳に靴下がびろーんとはめられているから、という理由も大きそうだが。彼女は靴下を片方紛失し、片割れが出てくるまでの置き場として俺の耳を活用しているのだ。つまり俺は、子どもたちに笑われている。やめてもらいたい。靴下はたぶんベッドの下だ。早く探し当ててほしいものだ。
 夜になると、俺は彼女に抱きあげられ、一緒にベッドに横になる。靴下が耳にはまっているあいだも、無事にベッド下で片割れが発見され、耳から取り去られたのちも、変わらない習慣だ。 彼女は布団のなかで俺の顎や腹をくすぐりながら、「明日も会社かー。やんなっちゃうな」とか、「週末に映画を見にいくんだ」などと言う。そしてすぐに、俺を抱いてすかーっと寝てしまう。おい、よだれが……。まあいい。俺は一晩中、彼女が安眠できるように静かに見守っている。にもかかわらず、彼女は寝返りのついでに俺をベッドから放りだすことがある。理不尽……。まあいい。フローリングの床に転がってもなお、俺は彼女の安眠を願ってやるできたうさぎだ。それに起床した彼女は、「ごめんごめん」と床から拾いあげた俺を腕に抱いて、頭をなでてくれるからな。
 
 いずれにせよ、話し相手が俺だけというのはさびしすぎるのではないか、だいいちきみの名前はなんなんだ、俺も「うさちゃん」としか呼ばれてなくて、それが名前なのか一般名詞なのか判断に迷っている身だが、と気を揉みだしたころ、彼女の友だちが部屋に遊びにきた。
 マイちゃんというらしい友だちは、窓辺に座る俺に目をとめ、
「かわいいのがいる! ミサ、おじいさんみたいに装飾性に欠ける暮らしだったくせに、どうしたの」
 と言った。そうか、彼女はミサというのかと、俺はそのときはじめて知ったのだった。
「フリマアプリで見つけて、ついポチリと。子どものころ、すごく大事にしてたぬいぐるみとそっくりで、もう運命かなーって」
 ミサは俺を膝に抱き、「やあ」と俺の右手を上げさせた。
「あー、私もクマのぬいぐるみが友だちだったなあ」
 マイちゃんは「やあ」と俺とハイタッチして微笑んだ。
 彼女たちが昼間っから酒盛りし、楽しそうにおしゃべりするのを、俺はミサの膝でおとなしく聞いていた。
 俺のパイセンにあたるうさぎやクマも、幼かったころのミサやマイちゃんにこうして寄り添い、天寿をまっとうしたのだろう。水色も、俺も、いつだってリサちゃんやミサのそばにいて、全力で見守っていく所存だ。
 俺たちは人間の友だちになるために生まれた。優しくなでられるために俺のふわふわの体はあり、悩みや喜びを聞き、たまに靴下を片方はめられるために俺の耳はある。そんな俺を、俺は誇りに思う。ミサが俺を大切にしてくれるたび、登下校する子どもたちが俺を見て笑顔になり、空をゆく鳥が窓辺の木の枝に舞い降りてさえずるたび、俺の心は綿のみならず愛でいっぱいになる。
 俺は求められているし、なにかを返すことができる。俺は生きている。ミサが俺を抱き、じっと目を見て話しかけてくれるつど、それを実感する。
 俺は薄桃色のうさぎだ。名前はあるんだかないんだかわからないが、ミサと一緒に幸せに暮らしている。

三浦しをん

三浦しをん ( みうら・しをん )

1976年、東京生れ。早稲田大学第一文学部卒業。2000年、書下ろし長篇小説『格闘する者に○(まる)』でデビュー。以後、『月魚』『秘密の花園』『私が語りはじめた彼は』などの小説を発表。『乙女なげやり』『あやつられ文楽鑑賞』『悶絶スパイラル』など、エッセイ集も注目を集める。06年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、12年『舟を編む』で本屋大賞、15年『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞を受賞。他に小説『風が強く吹いている』『きみはポラリス』『仏果を得ず』『光』『神去なあなあ日常』『天国旅行』『木暮荘物語』『ののはな通信』『愛なき世界』などがある。

(撮影:松蔭浩之)

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