内緒

恩田陸

SCROLL

気配を感じて、ふと横を見ると、銀縁メガネを掛け青いカーディガンを着た、ひょろっとした女の人が座っていて、「しーっ」というように唇に人差し指を当てていた。
僕は無言でその女の人を見つめた。こんな時は、慌ててキョロキョロしたり、声を上げたりしてはいけない。なるべく身体を動かさず、無表情でいるのがコツである。
雰囲気は少女のようだけど、けっこう年配の人のようだった。いわゆるグレイヘアというのか、髪はほとんど真っ白に近く、後ろでひとつにまとめている。
怖い人ではなさそうだった。メガネの奥の目はキラキラしていてどこかユーモラスなものを湛えているし、ちょっと困惑したように肩をすくめている。まるで、悪戯しているところを見つかった子供のよう。彼女は、もう一度僕に向かって唇に人差し指を押し当ててみせた――と思ったら、いなくなっていた。
「弟よ、ひょっとして、アレか?」
少し離れたところで、背中を向けて引手を磨いている兄が尋ねた。さすがに長いつきあいなので、僕が「アレ」に遭遇するとピンと来るらしい。あ、八歳上の兄が、僕に話しかける時に「弟よ」という、いささか前時代的な呼びかけから始めるのは昔からなので、あまり気にしないでほしい。
「うん、久々、キターって感じ。直に何か訴えてくるのって珍しいんだけどなあ」
「じゃあ、見たのはヒトか?」
「そう。年配の女の人だった」
「モノはなんだ」
「額縁」
そう、僕がこの時手にしていたのは、B5サイズくらいの小さな木の額縁だった。額の幅が五センチくらいとけっこう広めで、ゴツゴツした手彫りの模様が入っている。虫喰いの跡や波打つような木目が素朴な味わいを感じさせる。
額のガラスの中には、少し色褪せた絵葉書が入っていた。セザンヌのサント・ヴィクトワール山。
「これ、このあいだ兄ちゃんの知り合いが持ちこんできたやつだよね?」
「遺品だと言ってたな。ミッションスクールの校長先生だったって叔母さんの」
兄は古道具屋を営んでおり、僕はその手伝いである。主に運転手と雑用係だ。仕入れたものを運んだり、掃除したり。で、今は額縁のホコリを払おうと取り上げたところだった。兄は昔からじじむさく、子供の頃から古いものが好きだった。中でも、引手が大のお気に入りで(引手って分かる? 襖を開ける時に指を引っ掛ける、あの金具だ)ヒマさえあれば磨いている。なんでも、いつか桂離宮で、桂離宮オリジナルの「月」を模した引手を磨くのが夢なんだそうだ。
「額縁、ね」
兄はふと手を止め、チラリと僕を振り返った。
「裏、開けてみろよ」
「裏?」
僕は聞き返し、額縁を裏返す。茶色の裏板に、トンボと呼ばれる留め金具が四ヶ所付いていた。金具をずらして、裏板を取ってみる。
絵葉書とのあいだに、茶色い封筒が入っていた。
「何か入ってる」
「額縁っていうのは、何か薄いものを隠してあることが多い。手紙とか、へそくりとか」
「確かに」
「で、だいたい隠したことを忘れる」
この人は忘れてなかったんだろうな、と僕は直感した。だから、僕が額縁に触れたとたんに現れたのだ。
僕は封筒を開けてみた。中に、古いカードみたいなものが二枚入っている。絵葉書よりちょっと小さいくらいのサイズ。
「なんだろ、これ」
兄が僕のところにやってきて、封筒を受け取ると中身を取り出した。
罫線が引いてあり、日付、数字、名前が記入されている。筆跡がバラバラなところをみると、名前の主がそれぞれ自分で書いたものらしい。
二人で一緒にカードを覗き込む。
「ははーん、これ、貸出カードだな」
「貸出カードって、なんの?」
「おまえ、使ったことないのか? 学校の図書室から本借りる時に、見返しに貼ってある袋から出して、名前書いて図書委員に渡しただろ。借りた日付、クラス番号、名前」
「ああ、そういえば」
「ここに書名が書いてある」
カードのいちばん上に、書名があった。
『アルジャーノンに花束を』と『ライ麦畑でつかまえて』。
兄は「うっ」という、声にならない声を上げた。
「おおお、全世界の若者の永遠の課題図書じゃないか」
「そうなの?」
僕はあまり本を読まないし、記憶力もよくない。でも、兄がそういうのならそうなのだろう。本人は、永遠の老人みたいなやつの癖に、若者の課題図書も読んでいたとは。
何気なく兄からカードを受け取った瞬間。
パッと目の前が明るくなった。
ふうっと柔らかな、薫るような風が吹きつけてくる。
ここ、どこ?
僕は、ぼんやりと辺りを見回した。
薄暗い、ひっそりとした部屋。かなり広い。
窓が開いていて、風はそこから吹いてくる。ここは二階か三階? 窓の外には、ケヤキだろうか、みずみずしい緑を戴いた木が見える。
窓のそばのテーブル席に、誰かが座っていた。
学生服姿の男子。室内は暗くて、顔はよく見えない。端正な横顔のシルエット。
彼は本を読んでいる。身動ぎもしないのは、本の内容に集中しているからだろう。
と、彼を見ているのが僕だけではないことに気付いた。
部屋の片隅に、ひっそり立っている誰かがいる。
そうか、ここは図書室だ。セーラー服姿の女の子が、本棚の陰に立っていて、そっと本を読む男の子を見ている。
なんとなく、見覚えがあった。ひょろっとして、メガネを掛けていて、キラキラした目をした女の子。
ふっ、と風の気配がなくなった。僕は、兄の隣で貸出カードを手にぼんやりしていた。
「なるほどー、そういうことか」
今の「アレ」に、兄は気付かなかったようだ。ほんの一瞬のことだったし、カードに集中していたからだ。
「これ、同じ人だな」
兄は、二枚のカードの中ほどを指差した。
『アルジャーノンに花束を』のカード。
5月16日 25組 小野田 功
5月25日 22組 片野 篤子
『ライ麦畑でつかまえて』のカード。
6月1日 25組 小野田 功
6月9日 22組 片野 篤子
「ひょっとして、この片野さんというのが、兄ちゃんの知り合いの叔母さん? 校長先生?」
「のようだな」
兄と僕は反射的に顔を見合わせた。
「つまり、片野篤子さんは、小野田功君の読んでいる本を追いかけて読んでたんだな」
「きっと、小野田君に憧れてたんだね」
ふっと、鼻先に甘い風の匂いが蘇った。図書室の隅で、窓辺の男子生徒を見つめていた女の子。
「ドキドキしただろうなあ。小野田君の名前の下に、自分の名前を書く時は」
「んだね。ただ名前が並んでるだけなのにね」
小野田君の字は、癖字だった。ちょっと平べったく潰したような字で、ものすごく筆圧が強い。対照的に、下に書かれた片野篤子さんの字は、とてもすっきりしていて伸びやかだった。いきいきした、屈託のない人柄が滲み出ている気がする。
「でもさ、校長先生、この貸出カード、なんで持ってるわけ?」
「たぶん、こっそり持ち出したってことだな」
兄と僕はもう一度顔を見合わせた。
「だから、こんなところに隠してあったんだ」
道理で。僕は至極納得した。
人差し指を唇に押し当て、肩をすくめて僕を見ていたあのひと。
耳元に声を聞いたような気がした。
内緒にしといてね。
兄と僕は無言でカードを封筒にしまい、もう一度額縁の中に納めた。
「どうする、これ?」
「しばらくうちで預かっておこう」
そんなわけで、サント・ヴィクトワール山の絵葉書の入った木の額縁は、今は我が家の電話台の上に掛かっている。
だから、校長先生の秘密はナイショだ。

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