SUMMER#01

初恋の

川上未映子

SCROLL

 初恋の恨みは、おそろしい。

 歩きながらそんなことを考えて、いや違う、恨みではない、恨みではないな、おそろしいとは思うけど、恨みというのではないよなと考えながら、ぼんやりする。

 こんなふうに、もう何十年も昔に起きた初恋のことを、ふと思いだすことがある。いや、それも違う。初恋そのものを思いだすのではなくて、なんというか、が、不意に現れるのだ。

 初恋のかたまり。それは、後悔でも懐かしさでも、甘酸っぱさでも切なさでもない。どう形容するのが正しいのか、あぐねてしまう、何か。念、というのが近いような気もするけれど、それでは足りないような気がしてしまう何か。幸せな気持ちになる感じのものじゃなくて、目が合うと、ちょっとだけ気持ちが塞いでしまう感じの、何か。

 たとえば、霊感がある人たちって日常的に幽霊を見たりするらしいけれど、幽霊に遭遇するのってもしかしたら、こんな感じなんじゃないかなと思う。もう慣れちゃってるから怖くはないんだけれど、ああ、とため息をつくような。いつもおなじ感じで現れて、どうしてほしいのか、どうなりたいのかもわからない、ただじっとこっちを見てるかたまり。いつまで経っても変質しなくて、怖くはないけど、ただ思いの強さは伝わってくる。そういうのを抱えたまま動けないって、やっぱりおそろしいと思ってしまう。わたしは幽霊を見たことはないけれど、ときどきわたしにやってくるかたまりとそれは、すごく似てる気がする。だから、恨みっていう言葉が頭に浮かんだんだと思うけど、そもそも念と恨みがじっさいどう違うのか、それもよくわからない。初恋の恨み、初恋のかたまり、恨みのかたまり。なんだか、いやだな。


 金曜の夜から実家の母親に子どもを預けて、そのあいだにいくつか仕事を片づけて、ひょっとしたら海外ドラマの一本でも観る時間がとれるかも。そんな期待はいつもどおり裏切られる。あっという間に時間はすぎる。名前のないものだけで埋められる。一日は、本当になぎ倒されるように、たったの一息で終わっていく。わたしは駅前で鯛焼きをお土産に何個か買って、子どもたちを迎えにいく。

 夏は暑い。どんどん暑くなっている。一歩外に出ただけで、一瞬で全身に汗をかく。息をするたびに、熱気が肺に送りこまれて、目を閉じてしまいたくなる。少し遅れてやってくる蝉の音。昔から思ってるけど、蝉の鳴き声は鈴の音によく似てる。しかもクリスマスなんかに、何百何千という鈴がいっせいにしゃんしゃん鳴らされている感じ。夏と冬に属するものが、わたしの鼓膜をゆらしている。わたしはできるだけ影になっている部分を見つけて、踏み外さないように、足をすすめる。暑い。

 来たよ、母さんありがとうね、と部屋に入っていくと、束の間とはいえ、たっぷり甘やかされた子どもたちは、わたしにむかって「こないでよかったのに!」と大騒ぎだ。いやだ、まだ帰らない、せめて風呂に入って帰ると言って聞かず、それを受け入れると今度はもう一泊するという流れになるのは目に見えていたけれど、母親もそれでいいというし、もう何でもいいかな、と思ってしまう。昼間は水遊びをしたはずだから、疲れて途中で眠られるのも億劫だった。夫が帰ってくるのは深夜だし、どうせ寝るだけの家に今から連れて帰って何になる? 週末はもう、ずっとこんな感じ。そんなに遠くない場所に、そんなに関係の悪くない実家があるのはありがたいけど、これはれっきとした「前借り」であることもわかっているから、少しだけ胸が暗くなる。

 子どもたちはおばあちゃんにべったりで、ご飯も済んでいるし、わたしは手持ち無沙汰になる。それで、なんとなく、二階の自分の部屋に行ってみる。今では、父親のゴルフバッグとか、買い置きのトイレットペーパーとか、書類とか、母親がボランティアで参加しているグループの冊子なんかが詰まった箱の置き場所になっていて、カーテンも閉めたまま。空気が絵に描いたように淀んでいる。

 暑い。エアコンを入れるとちゃんと動いたけれど、少し埃っぽいにおいがする。でもしょうがない。実家ってこんなもの。物をちょっと動かしてスペースを作って、仰向けになって天井を見ていると、この部屋、こんな小さかったんだな、と思う。昔はもうちょっと広いような感じがした。でも、わたしの背は中学生の頃から変わってないし、かといって天井が変化したわけでもない(部屋に物は増えたけど)。わたしがもっと年をとって体が縮んだら、また印象は変わるのだろうか。わからない。とにかく、二十年くらい前、わたしはここで毎日を暮らしていて、今とおなじかっこうで、おなじように天井をぼんやり見つめて、いろんなことを考えていた。感情に、苦しんでいた。そんなことを思うと、やっぱり来るのだ、初恋の恨みともつかないかたまりが。


 生まれてこのかた、わたしは冴えたことがなく、冴えようと思ったこともないからそれはいいのだけれど、じつは一度だけ、この人にだけ冴えてみたい、と強く願ったことがあった。それが十四歳のときの初恋で、わたしはかなり真剣で、そして深刻だった。


 けれど、その思いはわたしのなかから一歩たりとも出ることはなく、誰にも知られずに終わってしまった。相手はわたしの存在を気にかけたことなんか、きっと二秒もないと思う(クラスは一緒だったから、二秒くらいは、まあ)。

 もちろん、相手のことなんかとうに忘れた。どんな顔をしていたどんな男の子だったのか、何をきっかけで好きになったのか、彼のどんな部分をどんなふうに好きだったのか、そういう具体的なことは、もう本当にすっかり消えて、跡形もない。わたしはもうすぐ四十になろうかという、日々のルーティンをこなすことで頭も体もいっぱいの、ふたりの子をもつ母親なのだ。過去をふりかえる余裕はないし、そういう湿度のある性格でもない。でも、こうやって何度も、初恋の恨みともつかないかたまりが、わたしにやってくる余地を残しているのは他ならぬわたし自身のはずだった。それがわたしを、不安にさせる。

 相手はいいのだ。なんにも覚えていないし、思いだせないし、当然だけれど現在の彼がどうしているかとか、本当にいっさい関心がない。だったらこれはなんなのだろう──そこでわたしは思いだす。何かで読んだか聞いたかした、昔の人、誰かのおじいちゃんだったか、誰かの話を。

 戦時中に食べるものが何もないとき、まだ若かったその人は、桃がすごく食べたかった。それはもう気が狂うくらいの食べたさで、ほとんど頭がおかしくなるくらいの欲求だったそうだ。それで、戦争が終わってしばらくして、桃を買って、死ぬほど食べた。あのときの気持ちを鎮めるために、癒やすために。けれど、どれだけ食べても、桃を食べたかったあのときの気持ちが満たされることは、ぜんぜんなかった。食べても食べても、もう食べられないくらいに食べつづけても、桃を食べたかったあのときの気持ちは微塵の変化もみせなかった。あのとき叶えられなかった無念は完璧に保存されたまま、その思いにたいしては、現在の桃や自分では手も足もでないことを知って、その人は唖然とした。つまり、その人は、その人の桃の「桃性」を、ある意味で永遠に失ってしまったのだった。あるいは、永遠に消えない桃の桃性だけが残ったとも言える? ──よくわからないけれど、わたしのこれって、これではないのか。


 では、わたしのなかで、桃に相当するものってなんだろう。

 たとえば、相手にも自分のことを好きになってもらいたかった?

 まさかまさか。そんなことありえない。そんな高望みをしたことは、誓って言うけど一瞬もない。好きなだけでもう、心も体もいっぱいだった。じゃあ、友達とか誰かに、ちょっと話してみたかった? いや、それもない。誰かに聞いてほしいとか、そういうことは思わなかった。じゃあ、やっぱり告白なんだろうか。自分がこんなにも、こんなにも好きだと思っている、ほかでもない当の相手に、その気持ちを伝えたかった? 玉砕は必至でも、それでもあの思い、本当は、知ってもらいたかったのか? ──なにこれ。

「いいか、やった後悔より、やらなかった後悔の方が大きいんだぞ」的な、居酒屋風の説教みたいな、そういう単純な話なのか?

 埃のにおいが少しだけ濃くなったような気がして、わたしはうつ伏せになる。それからもう一度仰向けになって、交差した腕で顔を覆う。肌は汗で、しっとりしている。違う違う、正直になれ。おまえぜんぜん知ってるじゃん。おまえの桃が何なのか。そう、わたしは桃を知っている。わたしの桃が何なのかを、本当は知っているのだ。何がわたしに、こんな年になってまで、初恋の恨みともつかないかたまりをこんなふうによこすのか、知っているのだ。

 あれは十四歳の冬のはじめ。わたしは数カ月後にやってくるバレンタイン・デーにむけて、ひとつの決心をした。それは、心から好きで好きでたまらない彼に、マフラーを編むことだった。

 なぜマフラーだったのか。それは、自分の頭で何も考えていなかったからだ。女の子がバレンタイン・デーに好きな男の子に手作りの何かを贈るという場合、買ってきた大量の板チョコを湯煎で溶かしてまたべつの枠に流し込んで冷やして固める、その過程にいったい何の意味があるのか未だに不明の手作りチョコか、だいたいが手編みのマフラーで、それ以外の選択肢は存在しないも同然だったのだ。

 わたしは編み物をすることじたいが初めてだった。当時まだ元気に生きていた祖母は、初心者むけのガーター編みを教えてくれた。当然ながら目は作れないから祖母が作って、わたしがそのあとを編んでいった。

 ガーター編みは簡単だった。わたしは彼のことを思いながら、ひたすら編んだ。一段また一段と編みあがり、長さがしっかり出てくるたびに、わたしは何にむかってなのか、彼への思いの純粋さとか、強さとか、まぎれもなさとか、永遠性とか、そういうものをものすごく証明できているような、誇らしい気持ちになった。母親は、マフラーの目的を知っていたのか知らなかったのか定かではないけれど、娘が部屋でこつこつ編み物をすることに気分を良くして、いくらでも毛糸玉を買ってくれた。

 毛糸の色は、黒だった。好きな人にマフラーを編む、というだけで手一杯で、ただカラフルな色ではないだろう、ということくらいしかわからなかった。それで黒にしたのだと思う。

 あんまり熱心に編んだので、マフラーはすぐにマフラーの長さになった。もうじゅうぶんな長さになり、マフラーは完成されるべき段階に来たのに、わたしはマフラーを編むのをやめることができなかった。学校で、好きな彼の後ろ姿、横顔、笑い声を聞き、体育の時間に走っているところなんかを盗み見て、そして他の女の子と話しているところを見ては歯ぎしりするほど嫉妬をし、おなじ教室の空気を吸っているのだと思うと切なさで胸がしめつけられる、そんな思いをすべて、わたしはマフラーに編み込んでいった。マフラーを編んでいると、なぜだか彼への思いが苦しいだけのものではなくなって、自分が何か素敵なもの、よいもので満ちているのだと、そんなふうに思えるのだった。

 バレンタイン・デーがやってきて、それが過ぎても、わたしはまだマフラーを編んでいた。マフラーはもうとんでもない長さになっていて、使った毛糸玉は数えきれず、わたしは毎週のように黒い毛糸玉を買ってきて、それをえんえん編みつづけた。母に見られるとややこしいので、ふだんは押入れに隠して、誰も入ってこない時間を使って編みつづけた。冬が終わっても、わたしはマフラーを編んでいた。マフラーを編んでさえいれば、わたしの彼への思いは何かにしっかりと守られており、誰からも何からも傷つけられることはなく、そしてその安心はずっとわたしのそばにあると、そんなふうに思っていた。そしてわたしは、マフラーを編むのをやめられなくなってしまったのだ。


 階下から子どもたちの声がして、はっとした。何度か瞬きをくりかえして、体を起こして押入れのほうを見た。思わず首をさわってしまう。なぜこんなに汗をかいているんだろう。夏だからだ、いまはれっきとした夏で、だからわたしは汗をかいているのだ。息を吸って、息を吐く。部屋はすっかり暗く、ふすまについたしみが、奇妙なかたちに浮かびあがった。

 あのなかに、あの奥に、ダンボールにしまったマフラーがそのままになっているはずだった。完成することのなかったマフラーが、棒針のついたまま、毛糸玉につながったまま、まだあそこにあるはずだった。けっきょくわたしは、マフラーを完成させることも捨てることもできず、そのままにした。最後は異常な長さになって、絨毯のうえに巨大な渦巻をつくり、わたしはその中心でいつも彼のことを思っていたのだ。

 捨てたほうがいいんだろうか。わたしはもう何十年も見ていない編みかけのマフラーのことを思う。終われなかったマフラーを思い浮かべる。あのマフラーを捨てることは、いったい何を捨てることになるんだろう。考えながら汗をかく。そして、こうやってずっと保管していることは、いったい何を残していることになるのだろう。もしかしたら、母がとっくに捨ててしまっているかもしれない。押入れのなかに、今もあるのかどうかは、わからない。けれど、もしわたしの記憶どおりにマフラーがあったなら、そしてそれを手にとったら最後、自分がまたつづきを編んでしまうんじゃないかとも思う。

 子どもたちがわたしを呼ぶ。返事をしなければと思うけれど、なぜか声を出す気になれない。また、声がする。誰が、どうして、わたしを呼んでいるんだろう。


 そしてわたしは、本当にマフラーなんか編んでいたのかと思う。あの日々の、わたしのなかから一歩だって出ることのなかった、今はもうどこにも存在しない思い。初恋の、恨みとも念ともつかない時代の、あれこれ。あれは、本当のことだったのだろうか。もちろん、本当のことだった。でもわたしには、ふすまを開けてそれを確かめることができないでいる。

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