彼女の武装

江國香織

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 まさか、と彼女は思った。まさか、いまあたしふられてるの? 目の前の男は辛そうな表情で、運ばれたカフェオレに口もつけずに、なにか言い訳じみた文言(あるいは、彼女には関係のない物語の断片)をならべている。「最初は、ずいぶん人なつこい子だなと思っただけだった」とか、「家がおなじ方向だって言うからよくいっしょに帰ってて」とか。つまり、と彼女は思う。つまり、その子を好きになったわけね。
「カフェオレ、冷める前にのまないと膜が張っちゃうよ」
 彼女は言い、こんなに冷静でどうするんだ、と思った。ふられたとき、世のなかの人たちはどんな対応をするんだろう。模範的対応みたいなものがあるんだろうか。
 窓の外は風のつめたい曇り日で(天気予報は、夜には雪が降るかもしれないと言っていた)、規則正しく植えられた街路樹の、葉のない枝はどれもひどくとがっている。彼女は甘いミルクティをのみながら、外を歩く人々をぼんやりと眺める。あの人たちはいいなあ、いまふられているさなかじゃなくて、と思った。「こんなことになるとは思ってなくて」男はまだなにか喋っている。「真美が悪いわけじゃないし、真美のどこかがイヤになったとか、そういうんじゃ絶対にないから」
 真美というのが彼女の名前だ。イヤになったわけではないと言われても、当然ながら喜べない。
「じゃあ、もう会えないんだ」
 ガラス窓から視線をはずし、男をまっすぐに見て尋ねる。彼女にとって大切なのはそこだった。
「ええと。うん。そういうことになるよね。ごめん」
 男はうつむいてこたえる。彼女にはわからなかった。いったいどうして、もう会えないなんてことになってしまうのか。
「悲劇じゃん」
 それでそう言ってみる。
 男の名前は川辺悟といい、彼女は川っちと呼んでいる。二人は、彼女が女友達数人でジンギスカンをたべに行ったときに出会った。男は製菓会社勤務の会社員だが、兄の経営するそのジンギスカン料理店を、その日たまたま手伝っていたのだ。羊肉を焼く手際も立ち居ふるまいもきれいで、気さくなのに礼儀正しい男に彼女は最初から好感を持った。肌が清潔そうで、笑った顔がスヌーピーに似ているところもよかった。また会いたいなと思い、できれば二人で、とも思った。そうしたら、その翌日、彼の方でも彼女に好感を持ったのだと、いっしょに行った女友達の一人(そこの常連なのだ)が教えてくれた。
 実際につきあってみると、二人は(すくなくとも彼女の意見では)可笑しいくらい気が合った。自転車が好きなところも、ビールより日本酒が好きなところも、アメコミより和製の漫画が好きなところも、でも映画は邦画より韓流より洋画が好きなところも、早起きなところも、服は断然肌ざわり重視で選ぶところも、ラーメンに入った高菜と酢豚に入ったパイナップルが嫌いなところも――。二人で何でもいっしょにしたかったから、彼女はラグビーのルールや選手の名前を覚えたし、彼は仏像の種類にくわしくなった。
 それなのにもう会えないということが、彼女には信じられない。“おはよう”から“おやすみ”まで、毎日十も二十もやりとりしているLINEもこれからは無し? それぞれの家で同時にNetflixの映画やドラマを観始めて、終るや否や電話で感想を語り合うのも無し? 電車を使うと私鉄を二本乗り継いで五十分くらいかかる互いの家を、同時に出発して自転車をとばして、まんなか(よりすこしだけ彼女の家寄り)で会うタイムレース(いまのところ最短記録は二十二分)も無し?
「びっくりだな」
 悲しいというより事故に遭ったような理不尽さを感じ、彼女は呟く。
「あたしたち、親友でもあったのに」
 他に好きな人ができてしまったことは仕方がないが、だからといって、なぜ自分たちが別れなければならないのかわからなかった。恋人だと別れなければならないなんておかしい、と彼女は思う。友達なら、他の女の出現くらいで別れる必要なんてないのに。
「たぶん、そこなんだな」
 男が小さく笑って言う。
「俺は、友達じゃなく恋人がほしかったんだと思う」
 彼女は混乱してしまう。え? 恋人だから別れ話をしてるんじゃないの?
 窓の外は、いつのまにか雨が降り始めている。なんだかなあと彼女は思う。なんだかなあ、あたしの恋はいつも短命だなあ、と。高校時代にすこしだけつきあった相手との関係は卒業を待たずにうやむやになってしまったし、大学時代にすこしだけつきあった相手には誤解の余地なくきっぱりとふられ、就職してからすこしだけつきあった相手には、彼女の方が嫌気がさしてお引取り願った。今度はもうすこし長保ちするかと思ったのに。
「あたし、自慢じゃないけど子供のころからほんとうに物持ちがよくて」
 気がつくと、思考をそのまま言葉にしていた。たとえば、と言って、隣の椅子に置いてあったコートを彼女は持ちあげてみせる。
「これなんて、学生時代に買ってから、もう十二年くらい着てるし」
 それはクリーム色のウールのコートで、最近流行らないといえば流行らないかもしれないが、彼女は気に入っていた。
「この鞄もね、もう十年くらい使ってる」
 それは大きな肩掛け鞄で、黒い革がくたくたにやわらかくなっている。
「新しいのを買ってもね、馴染んだものの方がよくて、どうしてもそっちを使っちゃう」
「わかるよ」
 男は言い、やっと(ほんとうにやっと)カフェオレに口をつける。たぶんもう冷めて、膜が張っているはずだ。わかると言われたことがうれしくて、彼女はさらに続けた。
「小学校三年生以来、家で自分がたべたアサリの殻を全部とってあるし」
 男は驚いた顔をした。
「え? アサリの殻を?」
「うん。前に言わなかったっけ? もう何百もある。社会の授業で貝塚っていうものを習ったときに感動したの。地層の年代がそれでわかったりするのってすごくない? 貝殻は腐らないの。すごくない?」
 力を込めて説明したが、理解も共感も示されない。
「あ、家でたべたやつだけよ。お店でボンゴレビアンコとか、パエリアとかたべたときの殻はもちろん持って帰らない」
 それでそうつけ足したのだが、なぜ自分がいまだに目の前の男を安心させようとしているのかわからなかった。
「ともかくね」
 気をとり直して彼女は言う。
「ともかくね、あたしは物持ちがいいのに、恋だけは長保ちしないの。なんでだろうね」
「いや、なんでって言われても」
「いや、考えてくれなくていい。こたえてもらおうと思ったわけじゃないから」
 二人して、なんとなく笑った。そう、これ、と彼女は思う。こういうリズムが気に入ってたの。
「外、寒そうだね」
 仕方ないなあと思いながら彼女は言った。人間はナマモノだから、仕方ないなあ。
「で、これが川っちの見納めか」
 目の奥に、脳の奥に刻みつけるように男の顔を再度見つめる。記憶は貝殻といっしょだ。ずっと自分のものにしておける。
「先に出るね」
 見送るのがいやでというより、ふいに目の前の男――きのうまで彼女の川っちだったけれど、いまはもうそうではない男――に興味を失って、彼女は言った。立ちあがり、コートに袖を通す。コートは期待を裏切らない。たっぷりと彼女を包み込んでくれる。
 店をでると、思ったより雨が強かった。扉の前、赤い張出しテントの下に立った彼女は、大きな肩掛け鞄をごそごそ探る。折りたたみ傘が入っているはずなのだ(彼女の頼もしい鞄には、必要な物が何でも入っている。待ち合せの相手が遅れてくるときに読むための本も、靴ずれができたときに貼るための絆創膏も、急に蕎麦やラーメンをたべることになったときのためのヘアピンも、頭痛薬も胃腸薬も目薬も)。底の方から見つけだし、紺色の地に白い水玉模様の散ったその傘を手にとると、彼女は思わず微笑む。中学生のときからずっと使っている傘だからで、彼女はほんとうに物持ちがいいのだ。外側の袋みたいなものはずっと昔に失くしてしまったが、傘に袋なんて必要だろうか。カチッと音を立てて柄をのばし、彼女はその古い傘をひらく。なつかしい友人とひさしぶりに再会したような気がするのは、自分がまた一人に戻ったからだとわかっていた。
 雨と冬の外気の匂いがする。温かなコートと旧友みたいな傘で武装して、彼女は駅までの道を歩く。あたしは大丈夫、と彼女は思う。変らないものたちに守られているから大丈夫。眼球の曇りがとれて、雨の街が隅々まで鮮明に見える気がした。

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