天井裏の時計

平野啓一郎

SCROLL

 小山亮一と聡実の夫婦が、子供二人を連れてF市に引っ越すことにしたのは、御多分に漏れず、コロナで東京の生活にすっかり疲弊してしまったからだった。
 夫婦共々、リモート・ワークが主となり、子供の学校まで休みになると、2LDKの手狭なマンション暮らしに、いよいよ耐えられなくなった。
 無性に庭が欲しくなり、家の中で一人になれる場所が欲しくなった。それだけで、今、家族を見舞っている困難の数々は、たちどころに解決しそうな気さえした。ちょっとしたやりとりが、呆れるほどすぐにケンカになった。
 第一波が落ち着いて、第二波が来る前の夏頃から、方々を探し始めて、ようやく九州に転居先を決めた。特にゆかりのある土地でもなく、冒険的な不安と興奮があった。
 見つけたのは、築八十年の所謂“古民家”で、それを全面的にリフォームすることにした。塀のない、空き地のように広々とした庭があり、子供たちはそこで、手打ち野球くらいなら出来そうなほどだった。花や野菜を育てることも出来るだろう。
 リフォームには、コロナの影響もあり、四ヶ月かかるという見積もりで、年内には何とか引っ越す予定だった。
 第二波がようやく去った十月のある日、リフォーム会社から写真付きのメールが届いた。 天井を剥がすと、こんなものが出てきたと言い、見ると、婦人用の時計だった。小さなお菓子の箱に入っていて、見つかった時には、半ば露出していたらしい。
 恐らく前の住民のものだろうが、天井裏から出てきたというのが、不気味だった。
 処分しましょうかと尋ねられ、亮一は、何となく、「はい。」とも言いかねて、それを送ってもらうことにした。
 箱を開け、緩衝材に包まれた時計を覗き込むと、聡実は、「なんか気持ち悪いね。」と言った。
 時計が入っていたというチョコレートの箱は、亮一も子供の頃によく食べていたので見覚えがあった。四十年ほども昔だろうか? 変色していて、鼠の咬んだあとがあった。
 時計はクオーツで、針は2時17分32秒で止まっている。彼が成長してきたこの長い時間、ずっと、その時刻だったというのは、不思議な感じがした。国産の誰でも知っているブランドで、白い、丸い文字盤にステンレスのベルトというシンプルなデザインだった。
「隠してたのかな?」
「誰が隠すの?」
「さあ。妻がこっそり買って、とか?」
「天井に?」
「......。」
「ヘンな事件とかに関係してないと良いけど。」
「まあ、そんな話じゃないだろう。」
「どうして? 事件の証拠隠しとか?」
「刑事ドラマの見過ぎだよ。」
「テレビ見ないし、わたし。」
「まあ、そうだけど、......」
 リフォーム会社によると、天井裏は、イタチか猫かが出入りしていたらしく、「外から運んできたんですかね?」と電話で言われたが、それもありそうになかった。
 亮一は、汚れたままで家に置いておくのも気持ち悪く、箱を捨てて、ウェット・ティッシュで時計を拭き、ついでに、手許にあった眼鏡クロスで磨くと、新品のようにきれいになった。
 ベルトの環が、ほっそりとした女性の手首を想像させた。若い女性のものだろうが、持ち主はもう、還暦を過ぎているくらいだろう。そもそも、まだ存命だろうか?
 ゲームの順番を巡って、また兄弟ゲンカが始まり、聡実が大声で叱りつけた。早めに介入すべきだったが、亮一はしばらく椅子を立たずに、掌に載せた時計を眺めていた。

 亮一は、不動産会社を通じて、家の売主に連絡を取った。契約の際に一度会っていたが、彼よりも少し年上の、真面目そうな男性だった。
 すぐに返事が来て、確かに自分の持ち物で、ずっと探していたので、出来れば返してほしいと書かれていた。勿論と、亮一は早速、その手配をした。確認のメールが届いた一月半後、売主からマスカットが送られてきた。時計の礼とのことで、ワープロ打ちの長い手紙には、思いがけず、次のような真相が認めてあった。

             *

 時計は、売主の男性が、子供の頃に通っていた保育園の保育士のものだという。
 ある日のプールの時間、見学していた彼は、短大を出たての、若い女性の保育士から、「ちょっと、あずかっててくれる? みずにぬれるとこまるから。」と、この時計を手渡された。人気者の彼女は、はしゃぎまわる子供たちに水しぶきをかけられて、衣服を濡らしていた。
 彼は、それをなくさないようにポケットにしまった。そして、二人ともそのまま忘れて、時計を、自宅に持ち帰ってしまったのだった。
 翌日、若い保育士は、彼に声をかけて、「Yくん、せんせいきのう、うでどけい、かえしてもらったよね?」と尋ねた。彼は、「うん。」と答えた。「そう、かえしてもらったよね、......」帰宅して、昨日、脱いだズボンのポケットを探ると、腕時計が出てきた。彼は、返し忘れていたことよりも、返したと言ってしまったことのせいで、どうしたらいいのかわからなくなった。捨てることもできず、隠し場所を考えたが、両親の部屋で寝起きしていたので、なかなか思いつかなかった。困った末に、彼はそれを、お菓子の箱に入れて、天井裏に隠すことにした。以前、いとこと押し入れで遊んでいた時に、そこに天井裏への出入口があるのを見つけていたのだった。
 若い保育士は、その後二度と、彼に時計の話をしなかった。両親にも、問い合わせなかったようだった。
 卒園を間近に控えた頃、その保育士が退職するという噂が広まった。
 彼はようやく、時計を返さなければならないと思うようになった。ところが、天井裏のフタを開け、手で探ってみても、菓子箱はなかった。顔を半分、突っ込んで見てみたが、やはりない。ふしぎだったが、母親が見つけて、黙って先生に返したのではという気がした。子供らしいおかしな考えだったが、それで彼は、時計の行方を捜すことを諦めてしまった。ホコリっぽい天井裏が、恐かったせいでもあった。
 このふしぎは、しかし、意外にいつまでも彼の心を離れなかった。彼はその保育士を慕っていたのだった。
 小学六年の頃、一度、懐中電灯で天井裏を照らしてみたことがあったが、やはり時計も箱も見当たらなかった。
 その後は、大学進学を機に実家を出て、ほとんど時計のことも忘れていた。思い出したのは、三十代になって失職し、その後、不安定な生活が続くようになってからだった。
 彼は、あれは自分の人生の間違いの始まりだったのではと思うようになった。
 あの時の不正直が、その後もずっと尾を引いていて、今に繋がっているのではないか?
 悪い「自己責任論」だった。
 父が他界し、去年、母をも失った時、語りそこなった話題の一つとして、この時計のことが、一瞬、彼の脳裡を過った。しかし、母は恐らく、何も知らなかっただろうという気がした。
 それで、生まれ育った古い家を処分し、思いがけず、その時計が出てきたというのは、彼には何か、自分の人生を変えるほどの大きな出来事と感じられた。与えられたのは、真摯な謝罪のチャンスだった。
 保育士を探し出すのには苦労したが、旧友数人に事情を打ち明けると、仲介してくれる別の保育士に辿り着いた。奇妙な話だったが、警戒されなかったのは、彼の人柄だろう。メールを書き送ると、保育士も彼のことをよく覚えていて、しかも、時計がなくなった騒動も記憶していた。当人に転送してもらえることになり、彼はようやく、すべてを打ち明ける手紙を書き、謝罪し、時計を修理して郵送したのだった。
 結婚して姓が変わった彼女は、今はもう、六十三歳になっていた。すぐに返信が届き、連絡をもらえたことを喜んでいた。礼を言い、自分の方こそ、園児に時計を預けるというのは、まったく軽率で、その後、彼がそのことを気にし続けていたと知り、胸が痛んだと書いてあった。彼女は、たった一度しか、彼に時計の返却を確認しなかったが、どうもその不注意によるトラブルを、園長に叱責されていたらしい。彼女もまだ、二十歳を過ぎたばかりだった。
 続けて手紙には、こうあった。
 実は、あの時計は、短大に入学した時に父に買ってもらったもので、大切にしていたので、ずっと悔やんでいた。母は亡くなり、父は今は施設に入っていて、最近はコロナで面会を制限され、元気がなかったけれど、先日ようやく会って時計を見せると、泣いて喜んでくれた。自分も涙が出た。父も老い先あまり長くないと思うので、時計が戻ってきて本当に良かった。捨てずにとっておいてくれて、ありがとう、と。
 彼女の中では、彼はまだ、保育園児の頃のままの姿をしている様子だった。
 売主の男性は、その顛末をどうしても話したくて、マスカットと一緒に、礼状を送って来たのだった。

 亮一も聡実も、これは美談なのだろうか?と、手紙を読んで混乱した。しかしともかく、時計を捨てなくて良かったのだった。そして、なくした時計が四十年ぶりに出てきて、喜んでいる親子の姿を想像するのは、悪い気分ではなかった。
 送られてきたマスカットは、あっという間に、子供たちに平らげられた。
 夫婦二人は、その日は、天井裏の時計を巡って、この半年ほどの間、終ぞなかったほど静かに、深夜まで語り合った。
 彼らの中で、半年以上も壊れかけていた時計が、ようやくまた動き出した。
 隠した覚えはなかったが、それはしばらく、確かに見失われていたような感じがした。

他の作品も読むOTHER WORKS

TOP