コートのポケットに手を入れると何か硬いゴツゴツした物に触れた。
「ん? 何だこれ」
思わず呟いた。
男は、普段独り言など言わなかったが、あまりにも意外だったのでつい声が出た。
すれ違う人の何人かが声に反応して男に気づき、「あっ」というような顔をする。
男はコメディアンでそこそこ顔は知られていた。外を歩く時は帽子を被るようにしていたが、今は誰もが常にマスクをしていて、あまり周りを気にせず、前だけを見て歩くので以前より無防備だった。一瞬、「しまった」と思ったが、とはいえ、たとえ誰かに気づかれたところで若いアイドルのように人が集まって困るということでもない。現にさっき自分に気づいた人々も「ほら、あの人。テレビに出てる。何ていったっけ?」などと話しながらそのまま行ってしまった。五十も半ばを過ぎた、くたびれた漫才師にわざわざ声をかけ、握手だのサインだのをねだるような人間は滅多にいない。
男はポケットの中の異物を指先で確かめる。何度か握ったり触り直したりして思い当たった。あの時のあれだ。
十二月に入り急に真冬の寒さになり、何年ぶりかでタンスの奥から引っ張り出してきたコートだ。あの時のまま、クリーニングにも出していなかった。
男はそれを取り出して確かめたかったが、物が物だけに今ここで出すのはさすがに人目が気になる。仕事場に引き返そうとも思ったが、たった今収録を終えたばかりの出演者が帰ってきたらスタッフも戸惑うだろうし、テレビ局というのは意外と警備が厳重で、一度出てしまったら、いくらタレントといえども、簡単に通してはくれない。受付で馴染みのプロデューサーに連絡すれば何とかなるだろうが、そこまでする程のことでもない。検温や消毒も面倒だった。
この先に広い公園がある。思った以上の寒さで億劫だったが、そもそも気まぐれで送迎車を断ったのは、男にしては珍しく、少し歩きたいと思ったからだった。
ベンチに座ると正面の海の向こうが赤く染まり始めていた。
本来ならこの時期は若者達で賑わっているはずの公園だが、ここ二年近く、人出は少なくなっていた。最近は徐々に戻り始めているということだったが、今日は格別冷える。海に面した柵のあたりに、酔狂な恋人達が二、三組いる程度だ。
男はポケットの中の物を取り出した。それは壊れた古いテレビのチャンネルだった。
指でつかんで回す用に突起が円盤にくっついてる。円盤の表面に1から12までの数字と“U”という文字が時計の文字盤のように振られている。今となっては何の役にも立たないがらくただ。若い人に見せても何だか見当もつかないだろう。
バカだ......。
男は自分のうかつさにあきれた。
母親が死んだのは三年前の冬だった。父は更にその二年前に他界していて、空き家になった実家に妻と遺品整理に行った。
自分が使っていた子供部屋は、すっかり母の部屋になっていた。
持ち主のいなくなったアルバムや本、手紙の束などを取り出し、タンスや棚を探り、あちこちを散らかすようにしていると、引き出しの奥に見覚えのあるお菓子の四角い缶を見つけた。
取り出して埃を払い、蓋を開けると中にはミニカー、怪獣の人形、ヨーヨー、自転車のカギ、野球カード、ビー玉、トカゲのゴム人形などと一緒に取れたチャンネルがあった。
生前、母は常々「お前の物は全部捨てた」と言っていたから驚いた。
その缶は男が子供の頃、宝物入れとして母にも見つからない場所に保管していたはずの物だった。成長するにつれ、隠し場所どころか、そんな物があったことすら忘れていた。母はそれを取っておいたのだ。
バカだなぁ......。
自分と母に呟いた。
男は缶からチャンネルを取り出し、しばらく眺め、手で感触を味わっていた。少しずつ、何の役にも立たない思い出が蘇った。
リビングで掃除業者を指揮して遺品整理をしている妻には、とてもそれを持ち帰るとは言えず、そっとコートのポケットに隠したのだ。
海に面した公園は、徐々に暗くなり、ますます冷え込み、人はもう誰もいなかった。
がらくたとしか言いようのない壊れたチャンネルを、少年時代の自分がなぜ宝物として持っていたのか。あの日確かに男は思い出し、コートのポケットに入れたまま再びすっかり忘れ去り、今日、たった今、また思い出したのだ。
バカだな......。
昔の光景が蘇る。男は五歳だったか六歳だったか。おぼろげな記憶だが、一九七〇年代初頭。今から思えばこの国は、高度経済成長期の最後の季節にいたのだろう。
六畳一間。アパートではなく貸し間だった。下に住んでいたのは父の友人の家族だ。
夜。泣いている自分。父は戸惑い、母は笑っていた。
その日父から「明日からテレビがカラーテレビになる」と言われたのだ。男は喜んだ。朝起きて夜寝るまでブラウン管の前にかじりついている程のテレビっ子だ。テレビの中には何でもあった。
カラーテレビというものがあるのは、何となく知っていたのだろう。自分が見ている漫画やヒーローが、本当は白黒ではなくて、色が付いていることも。
近所の誰々さんの家がカラーにしたらしい。と父と母が話しているのも聞いたことがある。だから自分の家のテレビが新しくなるのは嬉しかったはずだった。
ただ、ふと、思ったのだ。今のこのテレビはどうなるの?
「そりゃ、捨てるわよ」という母の冷静な一言を聞いた途端、胸がえぐられるような気持ちになった。
目の前のテレビを見つめる。四本の脚が付いていて分厚い箱を支えている。てっぺんにはアンテナが置いてあり、箱の横にはたくさんのシールが、もう隙間もないぐらい貼ってある。全部男が貼ったものだ。雑誌の付録や、お菓子のオマケのシール。ヒーローも、自動車も、女の子が好むお姫様まで。とにかく気に入ったものは、テレビの横に貼った。両横はそんなシールでいっぱいだった。
ガチャガチャ!と乱暴にチャンネルを回すとよく母に怒られた。「もっとゆっくり回しなさい」男は聞かずにチャンネルを回した。一気に1から12。そして12から逆回しに1。あんまりやるからチャンネルがバカになって外れるようになった。そうなってからは、母はそれを逆手に取り、怒るとチャンネルを外して隠してしまった。そうすればもう勝手にチャンネルを変えることは出来ない。
目の前の白黒テレビは、シールだらけにされ、チャンネルも壊された。それでも男にいろんな人を、いろんな場面を見せてくれた。「こんにちは〜こんにちは」テレビから流れてくるやけに明るい歌は、大阪万博のテーマだ。アポロ11号が持ち帰った月の石を見られるらしい。歌、漫画、面白い人達。全部テレビの中にいた。
夜になると男の目から涙がポロポロ流れた。「このテレビがいい」と言ってテレビの脚を掴んだ。もっと一緒にいたかった。「何でだよ? 新しい方がいいだろ?」父が困惑したのも当然だ。母は何となく息子の気持ちを察したのかもしれない。笑って取り合わなかった。男がいくら泣いても「ほっとけばいいのよ」と父に言っていた。
真夜中、明日には捨てられるテレビからそっとバカになったチャンネルを抜いて隠した。母はそれを見逃したのだろう。
バカだな。本当に......。
すっかり暗くなった公園にはもう人はいなかった。男はまだベンチに座りチャンネルを見つめていた。
あの頃父は三十代後半。今の自分よりも二十近くも若い。独立して自分の会社を立ち上げた頃だ。建築関係だったからそれなりに羽振りも良かったんだろう。白黒テレビをカラーテレビに変えると言って、息子が泣き出したら、驚いて当たり前だ。
カラーテレビが来ると男は前の日に泣いたことも、白黒テレビのこともすっかり忘れてかじりついた。その直後に父は一戸建てをつくり、一家は貸し間から移り住み、同じ頃、乗用車を買った。男は新しい家と車に目を輝かせた。
ひとりっ子だった男は「弟がほしい」と言ってよく親を困らせた。「お前の前に二人諦めてるのよ」と母から聞いたのはずいぶん後になってからだ。「お金がなかったからね。お前が出来た時もどうするか迷った。でもお医者さんからこれが最後のチャンスだって言われて、何とかなるだろうって言って生んだのよ」淡々と母は言った。
その頃、この国には、若い夫婦に子供を生んでみようと決意させる何かがあったのだろう。と男は想像する。......おかげで助かった。
男はふと、今朝見たネットの動画を思い出す。新しいリーダーが演説をしていた。
「私が目指すのは新しい資本主義の実現です」「令和の所得倍増計画」「成長なくして分配なし」
いろいろな言葉が飛び交っていた。
確かあの人は自分より十歳ほど年上だったか。家にカラーテレビが来た頃は、中学生ぐらいだろう。思春期の少年にとって時代の変化は刺激的だったはずだ。
東京五輪、大阪万博。宇宙旅行。
しかし今、なぜか時代は繰り返しているように見える。
あの頃の「成長」は明確に「物」だった。
男の右手に握られたがらくたは、かつて宝物だった物で、捨てられたのは成長の証しだ。
おそらく父も母も、宝物をがらくたに変えることで、人並みの生活を手に入れていたんだろう。誰もが「人並み」を模索していた。では今の成長とは何だろう。全てがスマホ一つの中に入り、もう既に人並みを皆が手にしているように思える。新しいリーダーに見えている「成長」とはどんな形をしているのか。
あれから家のテレビは何回か買い換えられた。男は変わらずテレビの前にかじりついていた。男が夢中になったのはブラウン管の中で暴れ回る芸人、コメディアン達だった。
いつも俗悪、低俗と言われ、「PTAが子供に見せたくない番組」と指定され、罵られた人達。笑い。バラエティ。漫才。彼らに憧れた。男にとってヒーローだった。
「テレビばかり見てるとバカになる」とよく言われ、その通り、男はバカになった。
今、「テレビはオワコン」と言われることが多くなった。「今時テレビ見てるのなんかバカしかいないでしょ?」と、ネットで誰かがいつも呟いている。
自分には見ている人達をバカに変える力はなかったようだ。
俺は何になったのだろう......。
何十年も時は過ぎ、男はテレビでお馴染みの「何者」かにはなれたが、あの頃のブラウン管の中のヒーロー達にはなれなかったようだ。
......まいったな。いつの間に皆成長したんだ。俺だけあの頃のバカのままだ。
右手に握りしめているバカになったチャンネルを見つめる。
遠くで船の汽笛が鳴った。.
.....いつまでこんなところに座って感傷にふけってるんだか。
自分にツッコミを入れ立ち上がる。海からの風を受けると凍えそうだった。
......このままじゃ俺もがらくただ。男はチャンネルを暗い空に突き出し、ガチャガチャっと回す。あの頃こうすると一気に世界が変わった。退屈なニュースから俗悪番組へ。1から12。12から1。
「みんなバカになれ」
空から雪が落ちてきた。
「ん? 何だこれ」
思わず呟いた。
男は、普段独り言など言わなかったが、あまりにも意外だったのでつい声が出た。
すれ違う人の何人かが声に反応して男に気づき、「あっ」というような顔をする。
男はコメディアンでそこそこ顔は知られていた。外を歩く時は帽子を被るようにしていたが、今は誰もが常にマスクをしていて、あまり周りを気にせず、前だけを見て歩くので以前より無防備だった。一瞬、「しまった」と思ったが、とはいえ、たとえ誰かに気づかれたところで若いアイドルのように人が集まって困るということでもない。現にさっき自分に気づいた人々も「ほら、あの人。テレビに出てる。何ていったっけ?」などと話しながらそのまま行ってしまった。五十も半ばを過ぎた、くたびれた漫才師にわざわざ声をかけ、握手だのサインだのをねだるような人間は滅多にいない。
男はポケットの中の異物を指先で確かめる。何度か握ったり触り直したりして思い当たった。あの時のあれだ。
十二月に入り急に真冬の寒さになり、何年ぶりかでタンスの奥から引っ張り出してきたコートだ。あの時のまま、クリーニングにも出していなかった。
男はそれを取り出して確かめたかったが、物が物だけに今ここで出すのはさすがに人目が気になる。仕事場に引き返そうとも思ったが、たった今収録を終えたばかりの出演者が帰ってきたらスタッフも戸惑うだろうし、テレビ局というのは意外と警備が厳重で、一度出てしまったら、いくらタレントといえども、簡単に通してはくれない。受付で馴染みのプロデューサーに連絡すれば何とかなるだろうが、そこまでする程のことでもない。検温や消毒も面倒だった。
この先に広い公園がある。思った以上の寒さで億劫だったが、そもそも気まぐれで送迎車を断ったのは、男にしては珍しく、少し歩きたいと思ったからだった。
ベンチに座ると正面の海の向こうが赤く染まり始めていた。
本来ならこの時期は若者達で賑わっているはずの公園だが、ここ二年近く、人出は少なくなっていた。最近は徐々に戻り始めているということだったが、今日は格別冷える。海に面した柵のあたりに、酔狂な恋人達が二、三組いる程度だ。
男はポケットの中の物を取り出した。それは壊れた古いテレビのチャンネルだった。
指でつかんで回す用に突起が円盤にくっついてる。円盤の表面に1から12までの数字と“U”という文字が時計の文字盤のように振られている。今となっては何の役にも立たないがらくただ。若い人に見せても何だか見当もつかないだろう。
バカだ......。
男は自分のうかつさにあきれた。
母親が死んだのは三年前の冬だった。父は更にその二年前に他界していて、空き家になった実家に妻と遺品整理に行った。
自分が使っていた子供部屋は、すっかり母の部屋になっていた。
持ち主のいなくなったアルバムや本、手紙の束などを取り出し、タンスや棚を探り、あちこちを散らかすようにしていると、引き出しの奥に見覚えのあるお菓子の四角い缶を見つけた。
取り出して埃を払い、蓋を開けると中にはミニカー、怪獣の人形、ヨーヨー、自転車のカギ、野球カード、ビー玉、トカゲのゴム人形などと一緒に取れたチャンネルがあった。
生前、母は常々「お前の物は全部捨てた」と言っていたから驚いた。
その缶は男が子供の頃、宝物入れとして母にも見つからない場所に保管していたはずの物だった。成長するにつれ、隠し場所どころか、そんな物があったことすら忘れていた。母はそれを取っておいたのだ。
バカだなぁ......。
自分と母に呟いた。
男は缶からチャンネルを取り出し、しばらく眺め、手で感触を味わっていた。少しずつ、何の役にも立たない思い出が蘇った。
リビングで掃除業者を指揮して遺品整理をしている妻には、とてもそれを持ち帰るとは言えず、そっとコートのポケットに隠したのだ。
海に面した公園は、徐々に暗くなり、ますます冷え込み、人はもう誰もいなかった。
がらくたとしか言いようのない壊れたチャンネルを、少年時代の自分がなぜ宝物として持っていたのか。あの日確かに男は思い出し、コートのポケットに入れたまま再びすっかり忘れ去り、今日、たった今、また思い出したのだ。
バカだな......。
昔の光景が蘇る。男は五歳だったか六歳だったか。おぼろげな記憶だが、一九七〇年代初頭。今から思えばこの国は、高度経済成長期の最後の季節にいたのだろう。
六畳一間。アパートではなく貸し間だった。下に住んでいたのは父の友人の家族だ。
夜。泣いている自分。父は戸惑い、母は笑っていた。
その日父から「明日からテレビがカラーテレビになる」と言われたのだ。男は喜んだ。朝起きて夜寝るまでブラウン管の前にかじりついている程のテレビっ子だ。テレビの中には何でもあった。
カラーテレビというものがあるのは、何となく知っていたのだろう。自分が見ている漫画やヒーローが、本当は白黒ではなくて、色が付いていることも。
近所の誰々さんの家がカラーにしたらしい。と父と母が話しているのも聞いたことがある。だから自分の家のテレビが新しくなるのは嬉しかったはずだった。
ただ、ふと、思ったのだ。今のこのテレビはどうなるの?
「そりゃ、捨てるわよ」という母の冷静な一言を聞いた途端、胸がえぐられるような気持ちになった。
目の前のテレビを見つめる。四本の脚が付いていて分厚い箱を支えている。てっぺんにはアンテナが置いてあり、箱の横にはたくさんのシールが、もう隙間もないぐらい貼ってある。全部男が貼ったものだ。雑誌の付録や、お菓子のオマケのシール。ヒーローも、自動車も、女の子が好むお姫様まで。とにかく気に入ったものは、テレビの横に貼った。両横はそんなシールでいっぱいだった。
ガチャガチャ!と乱暴にチャンネルを回すとよく母に怒られた。「もっとゆっくり回しなさい」男は聞かずにチャンネルを回した。一気に1から12。そして12から逆回しに1。あんまりやるからチャンネルがバカになって外れるようになった。そうなってからは、母はそれを逆手に取り、怒るとチャンネルを外して隠してしまった。そうすればもう勝手にチャンネルを変えることは出来ない。
目の前の白黒テレビは、シールだらけにされ、チャンネルも壊された。それでも男にいろんな人を、いろんな場面を見せてくれた。「こんにちは〜こんにちは」テレビから流れてくるやけに明るい歌は、大阪万博のテーマだ。アポロ11号が持ち帰った月の石を見られるらしい。歌、漫画、面白い人達。全部テレビの中にいた。
夜になると男の目から涙がポロポロ流れた。「このテレビがいい」と言ってテレビの脚を掴んだ。もっと一緒にいたかった。「何でだよ? 新しい方がいいだろ?」父が困惑したのも当然だ。母は何となく息子の気持ちを察したのかもしれない。笑って取り合わなかった。男がいくら泣いても「ほっとけばいいのよ」と父に言っていた。
真夜中、明日には捨てられるテレビからそっとバカになったチャンネルを抜いて隠した。母はそれを見逃したのだろう。
バカだな。本当に......。
すっかり暗くなった公園にはもう人はいなかった。男はまだベンチに座りチャンネルを見つめていた。
あの頃父は三十代後半。今の自分よりも二十近くも若い。独立して自分の会社を立ち上げた頃だ。建築関係だったからそれなりに羽振りも良かったんだろう。白黒テレビをカラーテレビに変えると言って、息子が泣き出したら、驚いて当たり前だ。
カラーテレビが来ると男は前の日に泣いたことも、白黒テレビのこともすっかり忘れてかじりついた。その直後に父は一戸建てをつくり、一家は貸し間から移り住み、同じ頃、乗用車を買った。男は新しい家と車に目を輝かせた。
ひとりっ子だった男は「弟がほしい」と言ってよく親を困らせた。「お前の前に二人諦めてるのよ」と母から聞いたのはずいぶん後になってからだ。「お金がなかったからね。お前が出来た時もどうするか迷った。でもお医者さんからこれが最後のチャンスだって言われて、何とかなるだろうって言って生んだのよ」淡々と母は言った。
その頃、この国には、若い夫婦に子供を生んでみようと決意させる何かがあったのだろう。と男は想像する。......おかげで助かった。
男はふと、今朝見たネットの動画を思い出す。新しいリーダーが演説をしていた。
「私が目指すのは新しい資本主義の実現です」「令和の所得倍増計画」「成長なくして分配なし」
いろいろな言葉が飛び交っていた。
確かあの人は自分より十歳ほど年上だったか。家にカラーテレビが来た頃は、中学生ぐらいだろう。思春期の少年にとって時代の変化は刺激的だったはずだ。
東京五輪、大阪万博。宇宙旅行。
しかし今、なぜか時代は繰り返しているように見える。
あの頃の「成長」は明確に「物」だった。
男の右手に握られたがらくたは、かつて宝物だった物で、捨てられたのは成長の証しだ。
おそらく父も母も、宝物をがらくたに変えることで、人並みの生活を手に入れていたんだろう。誰もが「人並み」を模索していた。では今の成長とは何だろう。全てがスマホ一つの中に入り、もう既に人並みを皆が手にしているように思える。新しいリーダーに見えている「成長」とはどんな形をしているのか。
あれから家のテレビは何回か買い換えられた。男は変わらずテレビの前にかじりついていた。男が夢中になったのはブラウン管の中で暴れ回る芸人、コメディアン達だった。
いつも俗悪、低俗と言われ、「PTAが子供に見せたくない番組」と指定され、罵られた人達。笑い。バラエティ。漫才。彼らに憧れた。男にとってヒーローだった。
「テレビばかり見てるとバカになる」とよく言われ、その通り、男はバカになった。
今、「テレビはオワコン」と言われることが多くなった。「今時テレビ見てるのなんかバカしかいないでしょ?」と、ネットで誰かがいつも呟いている。
自分には見ている人達をバカに変える力はなかったようだ。
俺は何になったのだろう......。
何十年も時は過ぎ、男はテレビでお馴染みの「何者」かにはなれたが、あの頃のブラウン管の中のヒーロー達にはなれなかったようだ。
......まいったな。いつの間に皆成長したんだ。俺だけあの頃のバカのままだ。
右手に握りしめているバカになったチャンネルを見つめる。
遠くで船の汽笛が鳴った。.
.....いつまでこんなところに座って感傷にふけってるんだか。
自分にツッコミを入れ立ち上がる。海からの風を受けると凍えそうだった。
......このままじゃ俺もがらくただ。男はチャンネルを暗い空に突き出し、ガチャガチャっと回す。あの頃こうすると一気に世界が変わった。退屈なニュースから俗悪番組へ。1から12。12から1。
「みんなバカになれ」
空から雪が落ちてきた。