バイバイ

尾崎世界観

SCROLL

 歯周病予防にも良いと友人から勧められ、最近フロスを使い始めた。それは糸巻きタイプの物で、最初、思っていた以上に汚れが取れるから恥ずかしくなった。ぐるぐると指に巻きつけたその頼りない糸を、恐る恐る歯と歯の隙間に当てる。慎重に押し込み、何度か糸を行ったり来たりさせる。洗面台の鏡には、口を大きく真横に開けた自分の間抜けな顔が映っていて、それを見ながらまた次の歯と歯の隙間に糸を当てる。もう終盤、左下の奥歯にフロスを押し込んでいると、鍵穴に鍵が差し込まれる音がした。最近、この音を聞くだけで体のどこかを刺されたような気分になる。ドアが開いて、玄関で靴を脱ぐコロコロと乾いた音が聞こえる。しばらくして足音と共に見慣れた黒髪マッシュが洗面所を横切っていく。猫背をさらにすぼめ、背負っていたギターとエフェクターボードを床に置いた。次の歯にフロスを通しながら、この先のことを考える。売れないバンドマンと同棲しているだなんて、周りの友達にはとても言えない。二十七歳を迎えて、友人とはたまに会っても結婚や出産の話題ばかりだった。そんな時、いつも奥歯に物が詰まったような話し方をしてしまう。一度、親友にだけこっそり打ち明けてみたら、それってヒモじゃんとはっきり言われた。
「飯ある?」
 一体私を何だと思っているんだ。そう思いながら腹を立てるけれど、ちゃんと飯はある。このままでは相手の為にならないとわかっていながら、つい、いつも用意してしまう。よく、備えあれば憂いなしと言うけれど、この場合、備えあれば憂いありだった。こちらの返事も待たずに、勝手に冷蔵庫から取り出した皿をレンジに入れ温める音がする。腹を立てて力を込めるたび、巻きつけたフロスは指に深く食い込んだ。テーブルに皿を並べる音に混ざって、缶ビールのプルタブを起こす音まで聞こえる。それを聞いた途端、何かが弾けた。やけにおめでたいプルタブの音が今日は誰かの舌打ちに聞こえて、ふいにすべてが馬鹿らしくなった。一体いつまでこんな暮らしを続けるつもりなのだろう。相手はサブカル向けの漫画や映画によく出てくるような、説明する時間がもったいないほどの典型的なヒモだ。月に数本のライブとスタジオ練習だけで、もう何年もバンドを取り巻く状況は変わっていない。おまけに最近は体重も増えてきて、肉付きの良いその体は、ヒモどころかロープを連想させる。先の無い毎日をダラダラと過ごしながら、どこで断ち切るかいつも決めあぐねてしまう。こんな風に一人で二人分生きていれば、あっという間に死んでしまうだろう。
「もう別れる。だから出て行って」
 気づいたらそう口にしていた。フロスを巻きつけた指は、鬱血して赤黒くなっている。指から外すと、止まっていた血がまた流れ出す温かみを指先に感じた。いくら口をゆすいでも、言ってしまった言葉は薄まらない。音として発した言葉の後ろから、じわじわと気持ちが追いついてくる。謝られて泣かれても、もう気持ちは戻ってこなかった。それからも、毎晩フロスは欠かさない。すっかり扱いに慣れても、毎回思っていた以上に汚れが取れるから、やっぱりその度に恥ずかしかった。
 新しい部屋が決まるまでの間、ロープは肩身が狭そうに暮らした。改めて今まで自分が買い与えた物を調べてみると、楽器類や、それに付随した何だかよくわからない黒いコードが何本も出てきて、その蛇みたいなコードが悪い繋がりの原因に思えて不気味だった。大量のCDや雑誌、本などを段ボール箱に入れてまとめる。クローゼットの中の服や下着、そのすべてを自分が買ったのに、そのすべてはロープの物だった。もう誰のものでもなくなったそれらは、申し訳なさそうにわが家の半分以上を埋め尽くしている。
 本当に出て行ってしまうと何だかあっさりしたもので、それなりに泣いたけれど、涙はすぐにちゃんと乾いた。
 ちょうどその頃から歯が痛みだし、耐えかねて歯科医院で診てもらうと、フロスの甲斐もむなしく右の奥歯が虫歯になっていた。先生が麻酔の注射を打つ間、大きく口を開けながらその痛みに耐える。なんだかカバみたいだし、バカみたいだと思った。そうして言葉遊びをしながら、様々な器具が口に入ってくる恐怖をどうにかやり過ごす。そう言えば、ロープの作る曲は、どれも歌詞が死ぬほどつまらなかった。たまには言葉遊びでもしてみればいいのに。何かと闇に飲み込まれたり、かと思えば、すぐその闇に一筋の光が射したり、いつもありきたりだった。挙げ句の果てには、部屋で一人膝を抱えていたら、どこからか僕を呼ぶ誰かの声が聞こえたりする。そんなのもう、ただの事故物件だ。
 開いた穴に詰め物をして、その日の治療は終わった。口をゆすぐと、まだ麻酔が効いているせいで、あちこちにピュッと水が飛び散っていった。
 ロープが家を出て行く時、自分が買い与えた物の一切を持ち出すことを許さなかった。せめてギターだけはと泣きつくロープの手を振りほどき、馴染みのないギターケースを自分の元へ引き寄せた。ロープが今までずっと抱きかかえてきたそのギターの感触は、知っているようで知らない、不思議なものだった。触れながら、なぜだか、ロープの手を初めて握った時のことを思い出した。
 ロープが出て行った後も、部屋からはたったロープ一人分が無くなっただけで、それまでとほとんど何も変わらない。音楽で世界を変えると息巻いていたくせに、二年以上同棲していた部屋ひとつ変えられなかったのがかわいそうだ。その後すぐに部屋の半分以上を埋め尽くす不用品が邪魔になった。ちょうどテレビCMで見たフリマアプリをダウンロードして、試しにあのなんだかよくわからない黒いコードから出品してみると、早速売れた。それでもう、色々と吹っ切れた。まだ未使用のピック、弦などもどんどん売れていく。アプリ内で商品情報を入力すれば売れやすい価格を自動でおすすめしてくれるし、慣れてきて、相場を調べながら自分なりに考えて値つけするのも楽しい。部屋にはまだまだ売る物がある。一人で一人分を生きる当たり前の生活はどこか物足りなくて、そんな時、余ったもう一人分を少しずつ誰かに売っていく作業に救われた。これまで何となく避けてきたけれど、ある日、ふとギタースタンドに立てかけられたギターに目が止まった。もうそれなりに経験も積んでいるし、思い切ってここでギターを売りに出してみることにした。これまで出品してきた商品より慎重に売らなければいけないと思い、即購入ではなく、希望者に一度コメントを入れてもらうよう設定をした。せめて本気で音楽をやっている人の手にギターが渡るべきだし、それなら、ロープも少しは浮かばれるはずだ。車や電化製品などとは違い、ギターは使えば使うほど価値が上がっていく。初めは相場の五割以下で考えていたけれど、以前ロープがそう言っていたことを思い出し、買った時と同じ値段をつけてみた。しばらくしてコメント欄をのぞくと、早速購入希望者からのメッセージが届いている。
〈コメント失礼します! いきなりのお願いで申し訳ないんですが、このギター、もう少し値下げしてもらえませんか? 今はまだ大学生で、経済的に余裕がありません。どうしてもこのギターが欲しいです。どうか、お願いします〉
 ちょっと図々しいなと思ったけれど、あらかじめ値段を高く設定していたこともあり、交渉に応じた。何度かのやりとりを経て、結局、設定価格から六割引きで売ることになった。引き出しの奥から出てきた弦やピック、ギターを拭く為のクロス、それらも一緒におまけとしてケースの中に入れた。部屋からギターが無くなってしまうと、出品はますます加速していった。次はエフェクターで、箱型のその機械を三つまとめて一万円で出してみる。ちょうどボディーの色が青、赤、黄色で、信号みたいだ。
〈コメント失礼します! あのギター、凄く良いです。ずっと弾いてます。ところで、このエフェクター、もう少し値下げしてもらえませんか? 今はまだ大学生で、経済的に余裕がありません。どうしてもこのエフェクターが欲しいです。どうか、どうかお願いします〉
 図々しいを通り越してちょっと笑ってしまい、結局、今度は設定価格の七割引きで売った。こんな鉄の塊、三千円でも高いくらいだけれど、買い手の大学生は大喜びしていた。それにこっちまで嬉しくなって、先日売ったギターを立てかけていた折りたたみ式のギタースタンドがまだそこに置きっ放しだったので、それも一緒に送った。他に売れる物がないか探しながら、自分の顔が綻んでいくのを感じる。それから、残りのエフェクター、部屋で弾く用のミニギターアンプ、さらにはロープがライブの時に着ていた衣装までをも限りなく安価で売った。

〈弦ある?〉
 近ごろすっかり馴れ馴れしくなった大学生から、飯ある、のテンションで聞かれ、本当はもう無いのに新たにネットで新品の弦を数セット取り寄せ、さらにピックを数枚付けたりもした。洗面所の鏡には、指に巻きつけたフロスを忙しなく動かす自分が映っている。もうずいぶんと慣れて、いつの間にかその糸をとても細く感じるようになった。その後ろには、ロープの物がもう一切無くなった部屋が映っている。断ち切るなら今だ。力を込めた指の先で、何かが解けた。
〈お久しぶりです。コメント失礼します。お陰であれからバンドを組んで、今度初ライブをします。いつか売れっ子になって、印税で美味しいものをご馳走しますね! ところで、まだ要らない弦ってあったりしますか?〉
 もう売る物はない。しばらくは一人分の物しかないこの部屋で、一人で一人分を生きていこうと思う。蓋を開け、ケースからフロスを引き出そうとしても出てこない。中を見ると、空だった。もう指に巻き付かないその短い糸を人差し指と親指でつまみ、ゴミ箱に捨てた。

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