ブルース・フォー・ポーギー

西川美和

SCROLL

1.ポーギー
 俺のレコードがない。ニーナ・シモンが一枚足りない。
 普段着でほほ笑んだ彼女の白黒写真に、淡くカラフルなタイポグラフィのジャケット。昔の部屋にはずっと飾ってたのに、一体どこへ行ったんだ?二十代の頃、12インチ盤を吉祥寺や立川で四枚ほど買いためた。ガーシュウィンのオペラ『ポーギーとベス』に出てくる男のことを歌った特別なライブ版の入った一枚。
 すっかり整理の手が止まった。他の三枚に代わる代わる針を落として聴いてみるけれど、やっぱりあの曲は入ってない。そう思うと、ますます聴きたい。スマホで音楽配信プラットフォームを立ち上げてみたら、あっけなくアルバムが見つかった。そう、これだ。画面を指先でタップすれば、すぐさまスピーカーから曲が流れる。—だけどちょっと待ってくれ。そういう問題じゃないだろう? 音楽は、聴くだけじゃ足らず、持つものだと思っていたあの頃の感覚が急によみがえった。今日はそういう日なんだ。十数年間存在すら忘れていたのに、手元に「ない」と判った瞬間、こんどの新居にもう一度あのジャケットを飾らなくてはならない気がしてきた。俺のこれからの生活に、レコードを聴いてる暇があるかはわからないが。
 ネットで中古レコードを探してみたが、このアルバムに限ってはことごとく在庫切れだった。ダメ元でフリマアプリを開くと、たった一点出品されていた。1万2000円。他に出ているニーナ・シモンより、飛び抜けて高い。買った当時の三倍くらいか。月額980円のサブスクで聴き放題のものが、同じ内容で1万2000円。いまどきバカバカしいだろ? バカバカしさの向こうに、お前は価値を見つけられる男なのか? と俺を試す出品者の声が聞こえてくるようだ。
〈1960年にニューポート・ジャズフェスティバルで録音されたライブアルバムです。盤に傷などはなく、綺麗な状態です。ジャケットには経年の日焼けがあります。思い出深い一枚のため、お値引き交渉はご遠慮願います〉
 とあった。「思い出」を盾にして、奴は強気だ。
 出品者の名前は「クロポッポ」とあった。発送元は東京で、「十一月中に引越し予定のため、断捨離中です」と、短い自己紹介文。それならこっちも一緒だ。売れるものはみんな売って引越し資金に当てようと、傍らに空の段ボール箱を置いてはみたけれど、いざ整理を始めると、執着とノスタルジーにからめ取られて箱はほとんど空のままだ。「クロポッポ」はニーナ・シモンを手放すという。俺は嫌だけどね。他にどんなものを出しているのかと奴の出品ページを開いてみた。
 レア物の相場を知り尽くしたコレクターかと思いきや、レコードは他に一枚もなかった。ショッキングピンクのデジタル腕時計2000円。グリーンのサマードレス1000円。レトロなデザインの真っ赤なスキージャケット4500円。水色と白の英文タイプライター4000円。陶器製のビリケンさん2000円。革ケース付きポラロイドカメラ5000円。ホットドッグ屋のブリキ看板1200円、「UFO注意」と書かれた額入りポスター2000円。ロナルド・レーガンのゴム製マスク2500円、埴輪の馬800円。傷だらけのアイスホッケーのスティック1400円。文字盤の毛沢東が手を振る置き時計500円。ひどく黄変した裸のキューピー人形3500円。毛束だらけのオランウータンのぬいぐるみ全長100センチ500円—おいお前、オラタンじゃねえかよ。ずっと抱いて寝てもらってたのに、売られちゃうのかよ。連れてってもらえないのか。どこ行くんだよ、黒恵は。
 そこにあげられたものは、全部俺のよく知っているわけのわからないガラクタだった。ビリケンもホットドッグの看板も毛沢東時計も、俺が旅先で黒恵に買って帰ったものだった。悪かったよ。シャレだったんだ。意味のないガラクタが好きだっただろ? けど、ニーナ・シモンまで売らなくてもいいじゃないか。そうだよな。君が好きだって言ったから、あげちゃったんだよな。

2.ベス
〈クロポッポ様。コメント失礼いたします。大変不躾なご相談ですが、こちらのレコードを少しお値引きいただくことは可能でしょうか〉
 何こいつ。だから値引きはしないって書いてんのにさ。だけどこんなものを1万2000円近く出してでも欲しがるのは、およそヒマでケチで前方不注意なジジイだろう。あるいはこのアルバムに1万2000円はふっかけすぎだと見とがめた相場通の玄人だろうか。
〈八郎さま。コメントありがとうございます。申し訳ありません。希少な名盤ですし、個人的にも思い入れのあったものなので、提示額どおりでのお取り引きをお願いできればと思います!〉
 とコメントを送り、すこし後悔した。値引きお断り、と書いたのは、引越しまで時間がなくて面倒だっただけで、「思い入れ」だなんてでまかせだ。向こうに持って行って邪魔になるものでもないけど、レコードプレイヤーも震災の時に壊れて捨てたし、私の人生にもう一度このアルバムがかかる場面はない気がする。粗大ゴミの処理代稼ぎとはいえ、そもそも人からのもらい物にこんな値段をつけて、あこぎもいいとこだわね。少し安くして、どこかのおじいちゃんが気持ちよく思い出に浸ってくれるんなら、それでいいのに。と思ったら、返信コメントがきた。
〈そうですよね......。私は二曲目が大好きで、久々にアナログ盤で聴いてみたいと思っています。検討させてください〉
〈八郎さま。二曲目、とても良い曲ですよね。ぜひともご検討ください〉
 二曲目が何だか、ちっとも思い出せない。私いま、玄関を通らない組み立て式の本棚を解体してて、それどころじゃないのよ。電話が鳴って、画面には「お父さん」とあったけど、出たら父ではないように思った。脳梗塞で大脳の左半球がやられてしまったから、ほとんど言葉が聞き取れない。「大丈夫よお父さん。順調。明日じゃないよ。明後日。火曜日に着くの。八戸の駅からはタクシーで行くから、心配しないで」
 しばれるはんでな、と、幾度か繰り返し、父は電話を切った。失語症の影響かと思ったが、「寒いからな」と言ったのだ。子供の頃に何度か連れていかれた父のふるさとの身を切るような寒風が思い出された。赤いスキージャケットの出品だけを、取り消すことにした。

3.ポーギー
 それにしても。人からもらったものを売るなんて、どういう了見だ。知り合いの結婚式の引き出物じゃあるまいし、一応互いが思いを交わした証だろ。持っててくれとは言わない。ゴミに捨てるのは忍びない、というのもわかる。だけどその忍びなさを引き受けるってのが、男と女の別れなんじゃないのか。
 とはいえ一緒にいたのは十年以上前だし、モノに宿る人間の思いも時間とともに漂白されていく。俺自身そのガラクタの存在も忘れていたし、むしろよく今まで取っておいたもんだ。もはや煮るなり焼くなり、元値の三倍で売るなりで構わないじゃないか。だけどせめて、せめて俺に知られない方法で——
「どうしたの。なんか変な味する?」
「うまいよ。牛すじがとろけるね」
 自宅でこしらえたカレーを持って、由梨香が手伝いに来てくれていた。
「由梨ちゃんはこれまで男性からもらったプレゼントって、どんなものがあった?」
「何、急に。そんなの聞いていいことなんかないと思うんだけど」
「言いたくなきゃ別にいいんだ。いつ誰から、って詮索もしないし」
「......ヴァンクリーフ&アーペルのブレスレット。MoMAで買った名刺入れ。グッチのミニバッグ。嬉しかったのは十万超えの美顔器かな。品番指定してお願いしたんだけど。微妙だったのはハワイ土産の下着のセット。気味が悪くて意地でもその人の前ではつけなかった。あとはスワロフスキーのちりばめられたピアノ型オルゴール。『エリーゼのために』が流れた時はどんな顔していいか困ったわ。ふふ」
 ロマンチックなオルゴール男に同情した。あんたはまだマシだ。世の中には毛沢東時計をもらう女もいるんだぜ。俺は去年の誕生日、この人に何をあげたんだっけ。
「ほら。聞かない方がよかったでしょ。絶対やな感じになると思ったのよ」
「そんなことないよ」
 それらはいまも使ってるのか、もう捨てたのか、それとも君もまた人に売り渡したのか、は聞かないことにした。
「何。昔の彼女からもらったものでも出てきたの?」
「いや、さっきテレビでクリスマス商戦のことをやっててさ。女性は何を喜ぶのかって」
「今はベビーカーにしか興味ないなあ」
「たしかにね」
「迷ってるの。ドイツのやつと、オランダのやつ、どっちがいいと思う?」
 俺にではなく、自分のお腹に由梨香は問いかけた。

4.ベス
〈クロポッポ様。度々失礼いたします。やはり1万円にお値引きいただければ、即購入させていただこうと思うのですが......しつこくてすみません(汗)〉
 ジジイ! くどい!
(汗)はこっちの話だよ。鉄製の足のついた机を三階から降ろすのはこたえた。ヤドカリのようなスタイルで階段を降りながら、机ごと転落するかと思った。二駅隣りの吉田くんに手伝いにきてもらえればよかったんだけど。
 八年前に右目を悪くしたのをきっかけに、私は舞台の照明係を辞めて言語聴覚士の専門学校に通った。同期だった吉田くんは私より二十くらい若いけど、国家試験の前にはよく一緒にファミレスで勉強し、就職後も連絡をとりあう仲だった。お父さんが八戸で倒れて、看る人は私だけだし向こうで働くよ、と連絡すると、吉田くんは「黒恵さんが好きでした」と返してきた。よせやい。そのまま私は返信をしていない。
 残る大型ゴミには、ベッドという大物がある。あれさえ降ろしてしまえば、なんとかなるだろう。東京で引越しを五回したけれど、考えてみればたった一人で何もかもをするのは初めてだ。最初のアパートの時はお母さんがまだ生きていた。あとはその時々の友達やら男の人が手伝ってくれた。ものによっては、一人で持ち上げるのは本当に重い。こんなに重たいものが、あの部屋の中にあったのか、と驚いてしまう。だけど毛布や台車も使いながら、慎重に、丁寧に、ゆっくり、ゆっくり、なんとか無事に下まで降ろせてしまうと、清々しかった。私はまだまだ、一人で、いろんなことができるんだ。
 フリマアプリにいろいろ出品したけれど、今日までには殆ど買い手はつかなかった。結局「八郎」に1万円であのレコードを売る以外は、ゴミに出してしまうより他なさそうだ。もうそのお値段でいいですよ、と返信を送ろうと思ったとき、
〈先ほどの交渉は忘れてください。セコいことを言って、お恥ずかしい限りです。大切にしてくれてありがとうございました。1万2000円で購入させていただきます〉
 何言ってんだこいつ。どういう意味よ。そして程なく、ニーナ・シモンは買い上げられた。重たい足を引きずりながら三階まで上がり、LP盤のジャケットを裏返して二曲目を確認した。
『PORGY』。
 ああ、何かうんちく言ってたね。ハッチだったのか。

5.ポーギー
 俺の頭は鉢が張っている。帽子のサイズは四歳で五年生用だった。「ハッチ」とあだ名され、大学時代まで引き継がれた。一度由梨香に話したら、「ひどい」と気の毒そうな顔をされた。気の毒なあだ名で俺を呼び続けた黒恵からは、
〈ご検討を重ねて頂き、感謝いたします。明日東京都内より発送します〉
 と淡白な返信があった。爽やかな男なら「君かい? 驚いたよ」などとためらわず連絡して、簡明直截に値切り交渉も切り出したろう。生活の内訳を自らぶちまけたのは向こうだが、それを黙って覗き見て、雄犬のマーキングみたいに自分の匂いを小出しにした俺は陰湿な奴だ。これで黒恵にバレているならなお恥ずかしい。それでもメールでも来やしないかと淡く期待していた。
 どうしてここにきてガラクタを処分する気になったのか、聞いてみたかった。黒恵の生活も大きく変わるのかもしれない。元気にしてたかい。舞台の仕事は続けてるのかい。今は誰かと一緒にいるのかい。俺は、父親になるんだ。五十も手前だってのにさ。子供が二十歳になる前に会社も定年だ。周りに人が増えて、賑やかになるはずなのに、たまらなく不安だよ。—いやそんなことは黒恵が知る必要のない話だった。メールなんか来なくていいのだ。
 由梨香が帰った後に一つだけ、黒恵が俺にくれたものが見つかった。安っぽいウクレレだった。チューニングも狂ったままだし、そもそも俺は絃楽器はろくに弾けないんだ。俺もこれを出品してみることにした。光の透けるムームーを着て、アパートの濡れ縁に腰掛けてこれを弾く黒恵の写真を、捨てた夕方のことを思い出した。
〈ウクレレ。塗装が剥げた中古品です。1万2000円〉
 もっと綺麗で上等そうなのが安くたくさん出ていた。きっと売れない。新居に持って行くより、燃えるゴミに出すべきだろう。東の空が白んできても、荷物はむしろ増えたように見えた。それでも目は冴えていた。スマホを開くとコメントが一つ届いていた。
〈八郎さま。購入を考えています。2000円に値下げしてください。それが古道具屋で買った元値です〉
 俺はすぐに、言われるままに負けた。
〈クロポッポ様。ご購入ありがとうございます。あなたの元に戻って、幸せになれますように〉
 今日はそういう日なんだ。太陽が顔を出す前に、ニーナ・シモンの暗い声が聴きたかった。うろ覚えの歌い出しを口ずさんでみた。ほとんど音程にならず、おそろしく下手な歌だった。

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