COLUMN

父のガラスの小箱

eri|えり 〈連載〉わたしとモノの交差点 

子供の頃、父の中でステンドグラスを自作するのが流行っていた時期があって
ステンドグラスといっても教会にあるようなアレじゃなく
ランダムなガラスの形に貝殻を組み合わせた抽象的な作品で
それが、ランプシェードや建具の小窓になったりして
当時の父のお店のディスプレイとして飾られていた。
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住んでいた家の庭に作ったウッドデッキの上に
作りかけのガラスや貝殻が並んでいる景色を覚えている。
作品に使われる貝殻は家族で色んな国の海で拾ったもの。
“貝殻を拾う”というのは我が家では恒例のことで
海外の滞在中に『さ、いくか』みたいな感じで
家族でビーチに向かう。
“いい具合“な貝殻、サンゴ、石、木の実を探して
みんな地面に目線を落としながら
砂浜を端から端まで歩いたものだ。
めんどくさいなと思うこともあったけど、
拾っているうちに必ず楽しくなってしまうし
のちのち、それが父の作品に使われるのが
嬉しく誇らしい気持ちだった。
『いいの見つけたね』って褒められるのも嬉しかった。
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拾ってきた子たちを洗って、タオルの上に並べて庭で乾かしたり
サンゴを並べてアルファベットで言葉を作ってみたりして遊ぶのも好きだった。

今思い返せば、そういった家族のレクリエーションから
有機的な自然の持つカタチのユニークさを楽しむこと、
敬うことを教えてもらったように思う。
その個性の持つ強さや面白みを肯定する力は
“他者を排除しない”という考えにも通ずることだから、
重んじるべきものを学ばせてもらってよかったなと
大人になった今しみじみと噛みしめる。
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あれから30年以上も経ってもなお、父が作った作品は私の生活の中にたくさん生きている。あの“ステンドグラスブーム”期に作られた、貝殻のかけらが取手になっているガラスの小箱もその一つ。
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ちょうどはがきサイズくらいの大きさの小箱は
気泡の入ったガラスが使われていて、光に当たると泡の影が落ちてとても綺麗。
今は来客用の煙草とライターが入っていて、
セルロイドのべっこう風シガーケースと
望まなくても増えていってしまう100円ライターが仲良く仕舞われている。
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使うたび父を想う。
使うたび、あの貝殻を拾い集めた家族の温度を思い出す。
父がいずれ死んでも私がいずれ死んでも、
この小箱は誰かの手元に残るんだろうか。

私は古いものを集めてきて売る仕事もしている。
その中で服も、こういった小物も、手作りのものによく遭遇する。
そのもの一つ一つにもこんな背景があって、
必ずそれを作った“作者”とその“意図”が存在する。
やっぱりモノって面白い。人の意思が形となって現れた存在。
自分と関わりあったモノ、人生で交差したモノとのモノガタリを
慈しんで生きていきたい、な。
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