趣味2021.08.31

40歳で仕事をリセット。再び「学生」になった篠原ともえが、表舞台の仕事からデザイナーになるまで

好きなものと生きていく#44

篠原ともえ、42歳。シノラーとして一世を風靡したのは今から20年以上前のことだ。まだ高校生だった彼女は、ブレイク中にもかかわらず大学に通うことを選んだ。

歌手・タレントとして活動しながら、少しずつ衣装デザインの仕事を始め、昨年末は紅白歌合戦に出場したアーティストの衣装を手がけ、デザイナーとして注目を集めた。

華々しい経歴を持っている彼女だが、実は40歳を期に一度仕事をリセット。休業中に、かつて通った文化女子短期大学(現・文化学園大学)の門をくぐった。仕事を休んでまで、学びを優先した理由とは――。(撮影/堀内麻千子、ヘアメイク/ナリタミサト、編集/メルカリマガジン編集部)

仕事との両立、それでも学ぶと決めた10代

──ブレイク当時、多忙を極めながら大学に進学することはすごく話題になりました。芸能界の仕事にしぼってもよかったと思うのですが、なぜ進学を?

私の中では、すごく自然な選択でした。高校生の頃から芸能界でお仕事をいただきながら、学校に通っていたので。エンタメにも活かせるしもっと専門的な勉強がしたいから大学に行こうという感じでしたね。

祖母が着物の針子をしていて、母は結婚する前まで洋裁をしていた。物心ついた時から自分もそういう人生を送るんだろうなと漠然と思っていたんです。

小学生の時は絵を描くのが好きで、中学生になると「ファッション通信」というテレビ番組で海外デザイナーの名前を覚えたり、「装苑」を読み始めて、雑誌に載ってる型紙を集めていました。ファッションにまつわる仕事がしたいなと思っていたから、デザイン学科のある高校に進学しました。
ただ、高校はファッションを専攻にしている学科はなくて、グラフィックの他、建築や写真などもっと幅広いカリキュラムだったんですね。だから裁縫技術を学ぶために文化女子に一般受験をして入学しました。

芸能のお仕事も自分がやりたくて進んだ道だったし、すごく楽しかったし、できることなら続けたいと思ってました。でも、それと勉強は別というか。自分にとって18歳で大学行く選択は、すごく普通のことだと思っていたんです。

高校に通いながら仕事をしているときも、基本的に「シノラー」の衣装は自分がアイデアを出していました。自分の中でデザインのスキルをあげれば、やれることも増えていく。18歳ぐらいからはライブ衣装も自分でデザイン画を描いて作ってもらっていました。

──プロのスタイリストや衣装を担当する人がいる中で、衣装を自分で作るのは肝が座っているように感じます。

若いときは自信がありましたね。特に10代の頃のファッションは自分にすごく似合うと思っていたので。がむしゃらに、堂々と、自分らしくある姿を見てもらうことを目指していました。

──大学は、通学するだけでも騒がれたそうで。

私自身は静かに学校へ通っているつもりでも、目立っていたんだと思います。キャンパスを歩くだけで、「写ルンです」でパシャッと撮られちゃう(笑)。注目してもらえるのは、表に出る人間としては嬉しいことではあるんですけれど、悪目立ちをしているんじゃないかと不安になったこともあります。他の学生さんの勉強の邪魔をしてしまったらどうしようっていう気持ちが強かった。
でも、学校の先生が私を1人の生徒として見てくれたので、とても救われました。デザイン画の先生は講義が終わった後に特別授業をしてくれたり、縫製の先生は「学校じゃ集中できないだろうから、この本を読みなさい」と言って、プリント集を用意してくれたり。移動中でもかじりつくように教材を見て、一生懸命授業に追いつこうとしてました。先生たちが特別扱いをしていないような、しているような(笑)。芸能人としてではなく、ファッションを学びたい学生として厳しく見てくれたので、大学に通い続けられたんだと思います。

──多忙ゆえに一度は卒業を諦めようとしたとも?

学校には行きたいと思っているのは前提としてあって。一方で、好きなものだけ学べれば、卒業にこだわらなくてもいいと思っていました。手に職がつけば「卒業」の肩書きはいらないんじゃないかなって。

──実際、芸能人としてちゃんと生計が立てられてましたしね。

けれども両親は「絶対に卒業したほうがいい」と止めてくれました。「学べるときはゴールまでたどり着いたほうがいい。どんな形であっても最後までやりきると、大人になったときに自信になるよ」と話してくれて、当時の私はすごく納得したんです。結局、1年留年してしまったんですけれど、きっちり卒業できたことが今の自信になっています。あのときの両親に感謝ですね。

テレビの収録があって、ライブがあって、衣装のデザインもして、学校の課題も作って、間に合わないときはバイク便で宿題を送ったり、土日に勉強をしたりして。仕事の合間に2時間あれば学校で授業を受けに行ってました。今振り返ると本当に忙しい学生生活でしたけど、あの時、頑張れた私がいたから今の自分があるんだなって思える。卒業って形でしかないんですけれど、努力の結果が手にできるだけですごく強い自信になりますね。卒業してよかった。

学校での思い出が自分の自信になっているから、40代になってまた学校に通いたいと思えるようになった気がします。

40歳で再び学生に

──40歳を機に、仕事を休んでもう一度文化女子に通い直されたのには驚きました。

いつも自分の中で葛藤がありました。表舞台に立つお仕事と、モノづくりする裏方のお仕事。どっちも大好きで、時間が許されることなら両方やりたい。でも、自分が纏うものだけでなく、ユーミンさんや嵐さんといったアーティストの衣装まで手がけさせてもらえるようになってきて、だんだんとデザインの仕事が大きくなっていったんです。そうすると表舞台の方の仕事に時間が割けなくなってきてしまって……。同時にデザイナーとしてもっとスキルを上げたい気持ちが芽生えてきました。

だったら、一度デザインの方に舵を切って見ようと思って、環境を変えてみたんです。仕事を休んでSNSも全部やめて、その時間に「20代のときに通った大学でもう一度学びたいな」と思って、迷わずスクーリングの願書を出してました。

──仕事を長く休むのは勇気がいりそうです。

不安になるんですよ、もちろん。悩み始めるとぼーっとしてしまって、何も生み出さないまま時間が過ぎてしまう。だから、とにかくデザインで頭を一杯にしました。授業以外の時間も、図書館に行くとか、手を動かすとか、作品を見に行くとか、デザイン関係の方に自分のポートフォリオを見ていただくなどして自分で自分に宿題を出してこなすことにしました。

──20年ぶりの学校生活はいかがでしたか?

まるで違いましたね。夜間のオープンカレッジだったので学生さんもすごく多様で楽しかったです。最初に自己紹介みたいなことをしたんですけど、マレーシアとか中国、韓国とか、海外から来ている方も多かったし、私の倍ぐらいの年齢の方もいらっしゃれば、主婦の方もいました。年齢も国籍も関係なく、本当に学びたい人が集まっていたから、自分もひとりの学生として夢中になるしかない環境でした。

昔はデザイン学科を専攻していたこともあり、課題もひたすら描いたデッサンを提出したり、プレゼンのシミュレーションなど、服飾デザイン全般の網羅的な内容のものを選んでいたんです。もちろん、それは結果的に今に生かされていますが、今回は作品づくりのために縫製のテクニックをあげたかったので、選んだ授業も違いました。

授業を聞いていても「これは私の作品でいかせるな」「こうすれば思い描いた形になるのか」という感じで、具体的に理解できた気がします。

毎回課題が出されて、2時間以内にできるようにしないといけないんですよ。間に合わなければ、家に持ち帰って課題をこなす。
──ハードな授業だと、匙を投げたくなりそうです。

必死になって追いつこうとすると、手が動いてくるんです。10代のときにやっていたことを、もう一回すると、手がね……頭の記憶ではなくて私の手が思い出すんです。「あ...この感触、手が覚えてる、懐かしい!」って、手先の経験が蘇ってきた。学生の時からずっとがむしゃらに頑張っていた蓄積を感じることができて、作ることを続けていた過去の私とつながった瞬間が何度かありました。

テキスタイルは、今年になって始めた版画で作りました。私にしかできないことを表現しようとしたらなんだろうと丁寧に探す中で、オリジナルの絵を描き、独自のパターンも作るということが見えてきました。ようやく自分らしいモノが作れてきたような気がしています。

退路を断って集中すると、研ぎ澄ましたものが自分の中から出てくるんですよ。集中する環境を作るって大事。この1年間で学びました。

──10代の頃から、ファッションのことを追い求め続けてこれた理由ってありますか? 仕事が目の前にあると、そっちに気を取られてしまう人は多そうです。

趣味でも、スポーツでも、続けられてきたことって少ないんです。きっと、続けられることが、その人にとっての一生愛せることなのかもしれませんね。文章を書くことが好きな方もいれば、写真を撮るのが好きな方もいる。私は絵を描くこととモノづくり。この2つが子どものときからやめられないことでした。続けてきたというよりも、やめられなかった。

絵とファッションをどちらか選ぶってことは、まだできていない……かもしれませんね。私の中で、この2つが常に軸にあって。だから20代の頃は、文化女子大学のデザイン学科に進学したんです。どっちも伸ばせるんじゃないかって思って。絵に行ったほうがいいのか、服飾だけに絞ったほうがいいのか……実は今でも迷いながらモノづくりをしています。
手探りながらもふりきれたのは、40代に入ってからですね。それぐらい時間がかかりました。

年齢を重ねると、若い時とは時代も変わるし周りの環境も違う。でも、学び続けたいという気持ちは今も変わらない。本当に小さく静かに燃えながらがむしゃらに学んでいたことが、今の私を作っている。好きなことを信じることで、自分の芯が強くなっていく。そう思います。
篠原ともえ TOMOE SHINOHARA
デザイナー・アーティスト・ナレーター。1995年歌手デビュー。文化女子大学短期大学部服装学科ファッションクリエイティブコース・デザイン専攻卒。映画、ドラマ、舞台など歌手・俳優・タレント活動を経て、衣装デザイナーとしてもアーティストのステージ・ジャケット衣装を多数手がける。2020年、アートディレクター・池澤樹と共にクリエイティブスタジオ「STUDEO」を設立。昨年、デザイン・ディレクションを手掛けた革のアクセサリーが、国際的な広告賞であるニューヨークADC賞において、トラディショナルアクセサリー・イノベーションの2部門でメリット賞を受賞。
篠原ともえ公式WEBサイト  https://www.tomoeshinohara.net
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WRITTEN BY

嘉島唯

(かしま・ゆい) ニュースポータルの編集者、Buzzfeedの外部記者。cakesでエッセイを連載中。iPhoneとTwitterとNetflixが大好き。苦手なのは、人との会話と低気圧。

好きなものと生きていく

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