趣味2019.08.09

「親密な人とふたりで聴きたい」ロバート キャンベルが愛する井上陽水の歌

好きなものと生きていく#6

ロバート キャンベルさんを漢字一文字で表現するならば「粋」という字がぴったりくるように思える。ニューヨーク出身の日本文学研究者で、現在は国文学資料館館長だが、本人に肩書きから感じるような威圧感はまったくない。最新のモードを身にまとい、時に真剣に、時に屈託のない笑顔を浮かべながら、日本文学、文化の魅力を縦横無尽に語る。テレビのコメンテーターとしても活躍し、SNSの発信も注目を集める。そんなキャンベルさんが好きな美しい日本語の音楽とは? (編集/メルカリマガジン編集部、撮影/草場雄介)

21歳で衝撃を受けた“踊れない“曲

館長室にかかっていた黄色のジャケットを羽織って、椅子に座る。「とても綺麗な柄。よく似合っています」と声をかける、ふふっと笑ってドリス ヴァンノッテンの最新コレクションなのだと教えてくれた。

それはデンマークのインテリアデザイナー、ヴェルナー パントンからデザインの着想を得て、オマージュを捧げたコレクションだった。ドリス ヴァンノッテンといえば、ドキュメンタリー映画で見せた姿が印象に残っている。

華やかなモードの世界からイメージされる姿とはまったく反して、彼は花に囲まれた邸宅で、パートナーと静かに暮らすのだ。内省的であり、静かな環境を愛しながら、しかしクリエイティブの最前線に立つ彼の姿は、どこかキャンベルさんと重なる。

「このデザインがとても好きなんですよね。カタツムリが動いているような、くねくねした柄でね。こういう話はいつもカットされてしまうんだけど……」と談笑しながら、話題は、新刊『井上陽水英訳詞集』に。井上陽水は、キャンベルさんの日本の思い出と重なるミュージシャンでもある。

1979年、21歳で初めて来日したキャンベルさんに衝撃を与えたのが井上陽水さんだった。当時はYMOが最先端を突き進む時代だった。ディスコで踊れる曲が流行する中で、あえて踊れない曲を歌っていたのが「井上陽水」だった。そして、1985年に研究生として、日本生活を始めたキャンベルさんが拠点にしたのは福岡にある九州大学文学部だ。福岡は井上さんの出身地である。

気の合う2人でじっくり過ごしている時に聴きたくなる

「陽水さんの声というのは、いわゆる美声ではないんです。でも、味があって聞いたらすぐに井上さんの歌だとわかりますよね。これがすごいなぁって思いました。誰にも真似できないような、これが井上陽水だって声です。ライブで聴くと、会場と溶け合うような素晴らしい声だなぁって思いますよ。

気の合う2人でじっくり過ごしている時に聴きたくなる。そんな音楽ですよね。そして、何より歌詞が素晴らしい。最初はその良さはわからなかったのですが、じわじわとわかってくる。僕がずっと研究の対象としてきた江戸時代や、明治時代の日本文学と重なるところがあるんです」

歌詞論については後で深めていくとして、私が面白いと思ったのは出版後の井上さんの反応だった。福井の日本酒が大好きだと語るキャンベルさんは、先日も福井まで井上さんのライブを聴きに出かけている。愛してやまない「日本酒と井上陽水」の音楽を同時に堪能する贅沢な時間を過ごした。

顔をあわせると、井上さんはまだ訳していない曲があるだろうとキャンベルさんに話しかけるのだという。

「それが『リバーサイドホテル』についてなんですよね。あれは何で訳さなかったのって聞かれるんですよ。たぶん半分冗談だと思うんですけど。

陽水さんを代表する有名な曲だけど、歌詞を読めば難しいってわかるじゃないですか。《ホテルはリバーサイド 川沿いリバーサイド》ってギャグみたいなものでしょ。どうやって英語に訳したらいいの。絶対に訳すのは無理ですよって言ってます」

陽水の歌詞は江戸時代の歌人たちにも通じる

英訳は単に日本語を英語に置き換えるという行為ではない。もっと深く、作品世界のなかに入り込み、何が表現されているのかを探る。作者と訳者のせめぎ合いがそこにある。キャンベルさんも翻訳を通して「普通では気がつかないことに気がつくことがあった」と語る。

例えば「海へ来なさい」という曲を読み解いてみよう。《太陽に敗けない肌を持ちなさい 潮風にとけあう髪を持ちなさい》から始まる名バラードだ。

「歌詞の日本語はとてもシンプルで、翻訳しやすいんですね。でも、問題はほとんどの行が〜〜なさいという命令形で終わることです。バラードなので、優しくゆっくりしています。

命令形というと、親が子供に言うような、勉強しなさいとか、これをやりなさいといった言葉を想像しますよね。子供からすると本当は嫌な言葉かもしれないけど、この歌詞はちょっと違います。二人称で、誰かに静かに語りかけるようなイメージなんです。これは陽水さんの歌詞の特徴でもあります」

ポイントは英語と日本語でニュアンスが変わってくる命令形の意味だ。これをどう解釈するかで翻訳も変わる。

「英語の命令形は言葉としてはとても強いものなんですが、陽水さんの〜〜なさいは優しい。渚に親と子供が一緒にいて、波が寄せては返すような光景が想像できますよね。そこで親が子供に〜〜なさいと語りかける。こんなにしなやかで、優しい命令形は見たことがない。

体温が感じられる命令形だと思います。そのまま単純に英語に直したら、体温や優しさは溶けて無くなってしまうでしょう。〜〜なさいという歌詞に込められた優しさを表現するために、翻訳も少し工夫をしました。

あらためて読んでみると、単調なようにみえて、そうではない反復があり、最初の一行からハッとさせられるような歌詞ですよね。これが、美しい日本語の音楽だと思いますよ」

工夫の結果は、詞集に凝縮されている。英訳を通して、井上さんの歌詞は新しい「顔」をのぞかせる。キャンベルさんは、井上さんの歌詞は、自身が専門とする江戸時代の歌人たちにも通じるものがあるといい、さらに語りを深めていく。

「この歌詞は、本では横書きで収録していますが、縦書きにするとすごく綺麗なんだろうと思います。玉すだれのように言葉同士がちょっと触れあいながら、ゆらゆらして、〜〜なさいと最後が揃っていく。これはとても美しいんだろう、と。

橘曙覧という江戸時代後期の歌人がいます。彼は「独楽吟」という小さな歌集を残しています。全ての歌がたのしみはで始まり、〜ときで閉じる全部で52首の歌集です。52の歌を縦書きすると、本当に美しい。真ん中の言葉は入れ替わっているけど、最初と最後は綺麗に揃っている。陽水さんの歌詞に通じるものがあると思いませんか」

ひそかに楽しむ自分だけのプレイリスト

キャンベルさんには、ひそかな楽しみがある。自分のiPhoneにお気に入りのミュージシャンのお気に入りの曲だけを並べたプレイリストを作ることだ。通勤や移動用に、仲間内のパーティー用に、よく利用するお気に入りのホテルごとに作ったもの……。一番のお気に入りプレイリストに井上陽水の名前も名曲ももちろんある。

「これまで、陽水さんの曲は誰か別のミュージシャンと一緒のプレイリストに混ぜるということはしていなかったんですね。例えば、陽水さんを20分聴く、あるいはアルバムを一枚通しで聴くということをやってきた。そのあとに、他のミュージシャンを流してたんです。でも、最近はちょっと聴き方を変えています。

他のミュージシャンたちの曲の後に陽水さんの曲を流すプレイリストを作ったんです。例えば、僕はポスト・マローンみたいなゴリゴリのラップも大好きなんですよ。彼のラップのあとに陽水さんの『カナリア』を聴いてみましょう」

そう言って、お気に入りのプレイリストを再生してくれた。ラップのあとに、あの独特の味わいがある声が流れて、また別の曲に……。

「これがいいんですよね。時代も、曲調も、テンポも全然違うんですけど、陽水さんのアルバムとは聴こえ方が違ってるでしょ。これが本当に面白い。陽水さんの曲は、みんなで賑やかにすごすパーティー用ではないですね。自分一人か、あるいは気心がしれた二人で過ごす時間か……」

ひとしきりプレイリストについて語ったキャンベルさんは、思い出したように言った。

「あれ、なんでこの話になったんでしたっけ。プレイリストは、今まで他の人に見せたことはなかったんだけど……。僕だけの楽しみなのに!」

私が「キャンベルさんが、楽しそうに話し始めたからですよ」と答えると、無邪気で、屈託の無い笑顔が返ってくるのだった。

それにしても、キャンベルさんと話していると「読む」というのは、とてもクリエイティブな行為なのだと思わされる。「井上陽水」というミュージシャンが生み出した日本語から、英語と日本語の違い、江戸時代の歌人、やがて現代のポップミュージックまで話が広がっていく。会話は常に心地よく、遊び心も忘れない。

忙しない日常、インターネットから流れてくる大量の情報からちょっと離れて、言葉を丁寧に読む時間をつくる。そこから広がる世界に浸って、もう一度日常に戻ると、これまでとは違った何かに出会えるかもしれない。

キャンベルさんの言葉はそんなことを教えてくれる。

ロバート キャンベル Robert Campbell
日本文学研究者 国文学研究資料館長 東京大学名誉教授 人間文化研究機構 副機構長。ニューヨーク市出身。専門は江戸・明治時代の文学、特に江戸中期から明治の漢文学、芸術、思想などに関する研究を行う。テレビで MC やニュース・コメンテーター等を つとめる一方、新聞雑誌連載、書評、ラジオ番組出演など、さまざまなメディアで活躍中。主な出演番組に、 「スッキリ」(日本テレビ系)コメンテーター、「Face to Face」(NHK 国際放送)MC、主な編著に『井上陽水英訳詞集』(講談社)、『東京百年物語』(岩波文庫)『ロバート キャンベルの小説家神髄 現代作家6人との対話』(NHK 出版) などがある。

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WRITTEN BY

石戸諭

(いしど・さとる)1984年、東京都生まれ。立命館大学を卒業後、毎日新聞、BuzzFeed Japanで記者として記事を執筆した。2018年4月からフリーランスのノンフィクションライターに。好きなものはライダースジャケット。

好きなものと生きていく

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