趣味2021.11.26

「革譚(かわたん)」人生を変えた買い物#04 上出遼平

誰にでも、人生を変えた買い物がある――さまざまな書き手の方に、記憶に残り、運命を狂わせた「お買い物」体験を綴っていただく、連載シリーズです。第4回は『ハイパーハードボイルドグルメリポート』シリーズの上出遼平さんです。(文・写真:上出遼平、イラスト:くぼあやこ、編集:カツセマサヒコ/メルカリマガジン編集部)

革ジャンが特別であるという事実に異論を唱える人間はいないだろう。
なぜ特別なのか。端的に言って、それがカッコ良すぎるからである。
革ジャンはカッコ良すぎるから特別なのだ。

カッコ良すぎるものが苦手な日本人は、殊更革ジャンを特別視しがちだ。
私の見立てでは日本の国土の90%以上の地域で「こんなカッコ良いものを着るなんて常識外れだ」というような価値観が蔓延している。
挑戦的なオシャレが是とされている表参道や原宿、あるいは外国人が多い広尾や六本木では誰もがさもありなんといった顔でさらりと革ジャンを羽織って歩く。これは治外法権と言って相違ない。ひとたびこのエリア外で革ジャンなど羽織ったものなら、たちまち刺すような好奇の目に晒される。田んぼの畦道を革ジャンでは歩けない。

東京都下、太宰が死んだ玉川上水沿いで生まれ育った私が革ジャンというものを初めて意識したのは、高校に入学して間も無く、友人とバンドを組んだ時のことだった。我々は「パンク」というスタイルを選択した。体制に抗い、リビドーを吠え、楽器を打ち壊し、出演するライブハウスは軒並み出演禁止になるような、そんなバンドを志した。さてここで必要なのが革ジャンである。ピストルズだって、クラッシュだって、スターリンだって革のライダースを羽織って舞台に立った。パンクの世界では、中学校の学ランよろしく革ジャンがユニフォームなのだ。暴力薬物どんと来いのパンクロッカーたちも、この辺の様式美に忠実なところがまことに上品である。

さて、同級生のメンバーがそれぞれに少しずつメーカーや形の異なる黒革のライダースを手に入れていく中、私は遅れをとっていた。金がなかったのだ。いまだに大きな謎であるけれど、パンクロッカーたちはいかにも金がなさそうなのに、革ジャンだけはシャキッと着ているのが相場ときている。安くても4〜5万円はするような上着なんてそうそう買えるものじゃない。多分、彼らは思い思いに違法な方法で金を得て、それで革ジャンを買っていたのだろう。そうとしか思えない。悪い奴らだ。

助け舟を出してくれたのはバンドのボーカルであり、中学校では番長的存在でもあり、オシャレリーダーでもあり、私の幼なじみでもあったT郎だった。「原宿は竹下通りの裏路地に、格安で革ジャンを売っている店がござる」と曰うのだ。このT郎、私たちが小学生の時分、どこを探しても売り切れていたたまごっちがこっそり売られている闇雑貨屋を教えてくれた男であるから信頼に値する。

そうして私はT郎に連れられ、中央線と山手線を乗り継ぎ原宿を目指した。竹下通りのごみごみした裏路地の先に位置する激安革ジャン屋さんは想像に違わず如何わしげだった。「パンク」と「ゴスロリ」が渾然一体となって異様な迫力を帯びている。怖い見た目の店員さんは過剰なほど接客が丁寧で、それはそれで「買わない」という選択肢を予め除外されているような気がして恐ろしかったし、結局買った。ダブルの牛革のライダース。破格の2万3千円。既成の枠組みを顧みないパンクな私は、黒ではなくてネイビーをチョイス。我ながら実にオシャレである。

「革ジャンを買いに行く」なんて恥ずかしくって、親には口が裂けても言えなかったから、帰宅した際には一悶着あった。小さな家では押し入れにも入らない革ジャンは隠すこともできない。「ここは逆に」と玄関前で新品の革ジャンを羽織り扉を開けた。どんな叱責を受けるだろうかと身構える間もなく、母親は「かっこいい」と言い、父親は「ロンドンパンクかよ」などと粋な言葉を吐いた。私はこの時、反抗期を逃した。

ハンガーから外して床に置いても倒れることなく形を止めるほどに、その革ジャンは硬かった。爪を立てると「コチッ」と音がするほどの硬さである。強面の店員さんは「着ていれば馴染みますよ」と言っていたけれど限界がある。しかしながら、袖を通した時のあの独特な安心感は、間違いなく初めての感覚だった。包丁で突かれても貫通しないだろうと思われるその硬い鎧は、何にも自信を持てなかった私の胸をぐっと張らせてくれた気がした。私はこの革ジャンをもっと体に馴染ませたくて、朝食の時もこれを着ていたし、眠る時だってこれを着たまま布団に入った。他のメンバーが容赦無く革ジャンに穴を開け、「鋲(びょう)」と呼ばれる金属の三角錐を打ち込んでいくのを横目に、私は甲本ヒロトを真似て缶バッジをいくつかあしらうに留めた。どうしてもそれが良かったというよりは、鋲を打つときにたくさん開いてしまう大きな穴が嫌だったのだ。缶バッジのピンなら飽きて外してもそんなに大きな跡にはならない。私は物を大切にするタイプのパンクであった。

私たちは東京中のライブハウスを革ジャンを纏って行脚した。ヤバすぎる大人のパンクバンドのライブでは、ステージからシンバルがフリスビーのように飛んできた。革ジャンを着ていたから一命を取り留めた。なぜか招かれたそのライブの打ち上げでは乾杯と同時に喧嘩が始まり、一人の男を三人が押さえつけ、居酒屋でおなじみの注文用電モクを全力で頭に打ちつけ続ける光景に居合わせてしまったが、革ジャンを着ていたから血飛沫の中でも平常心でいることができた。

そして私は革ジャンに合わせるかのように、自分の容姿を変革していった。
髪型はサイドを刈り上げトップを限界までブリーチしたツーブロック。耳にはいくつも穴を穿って、ネットで買った誰かの手作りのサイコロピアスをねじ込んだ。ライブハウスで顔中に穴の開いたお姉さんに「それかわいいね」と言われたことが誇らしかった。高校の保護者会では母が担任の教員に呼び出され、「お前の息子は人間もどきだ」と罵倒され泣いた。このとき母が涙を流しながら「でもうちの子は良い奴なんです」と言ったことは保護者の間で語り継がれていると言う。実際、見た目はともかく勉学には励んでいたので成績はクラスで1番か2番をキープしていたし、家族の仲は良好そのものだったわけで、先生の方がどうかしているのである。とかく、それでも私はやめなかった。パンクロッカーの道は茨の道。愛する者たちの涙の跡が道標だ。母さんごめん。

バンドは1年で解散した。
ピアスを外し、髪の毛も黒く染め直したが、革ジャンだけは手放さなかった。誰かのライブに行くときはもちろん、バイクに乗るときやちょっと気合を入れてのお出かけにも革ジャンを着た。赤いニキビが減っていき、革はしなやかに馴染んでいった。
大学に入って間も無く、友人が僕をモデルにした舞台を打った。あまりの嬉しさに、その打ち上げで着ていた革ジャンを彼にプレゼントした。きっとそれが鎧を脱ぐタイミングだったんだと思う。

二度目の革ジャン人生が始まったのは22歳の時だった。

社会人1年目。初任給を手にした私は代官山へと向かった。憧れの革ジャン、ルイスレザーズを扱う代理店がそこにあった。学生の時分には、カッコ良すぎて「ルイス」の3文字を口にするのも憚られた。パイロットのための衣類製造に始まり、それがバイカーに愛され、いつの間にかパンクロッカーたちのアイコンとなったルイスレザーズ。現在巷にあふれるイギリス風レザーライダースジャケットのほとんどが、ここのモデルをベースにしていると言っても過言ではない。ご多分に漏れず、私が高校生の頃に着ていたものもルイスの型をパクって安い革で作られたものだった。

目を瞑っていてもたどり着けるくらい、店の場所は熟知していた。何度その前を通ったことかわからない。店構えからあまりにもカッコ良くって、入店はおろか立ち止まることさえ許されなかった。店前に止められた店員のものと思しきイギリス製のバイクに気を取られながら、ウィンドウに展示された黒光りする革ジャンを何度横目に眺めたことか。社会人となった私は、銀行の封筒に下ろし立ての初任給を入れて、ついにその扉を開いたのだ。

あまりの高揚と緊張とで、店内の記憶がすっぽり抜け落ちている。とにかく、店を後にした私の手には、重厚な革ジャンが確かに掲げられていた。
選んだのは、ルイスレザーズの数多あるラインナップの中でも最もシンプルな「コルセア」と名付けられたシングルジャケットだった。ルイスといえば、「ライトニング」や「サイクロン」というカッコ良すぎる名前が冠されたダブルのジャケットが主流だったけれど、パンクな私はその既定路線に背を向けた。なお、私の知る限り歴史上もう一人の男が私と同様の考え方をしていた。シド・ヴィシャスである。見上げた男というほかない。彼が愛用していたのは胸にポケットが二つついたシングルジャケット「ドミネーター」。しかしながら私はシド・ヴィシャスの存在それ自体が権威化している可能性さえ鑑みて、そもそもシンプルな「ドミネーター」から胸ポケットまで廃した限りなく無表情な逸品「コルセア」を選んだのだった。お値段約15万円。感覚的には100年間毎日着てようやく元が取れる価格である。

もはや着たまま布団に潜り込む必要などないほどしなやかでありながら、着たまま布団に潜り込みたいと思わせるほどにまろやかな着心地。
私はこの初ルイスを着倒した。夏の間中ルイスを羽織れないことを悔やみ、9月には精神力で汗を止めながらルイスを羽織り始め、春が去っていく後ろ姿に涙を流しながら5月の末までルイスを羽織り続けた。仕事があまりにも辛くって、御成門の編集所から会社まで泣きながら歩いたときにもルイスを着ていた。顔を上げたら東京タワーが頭の上で輝いていた。仕事があまりにも辛くって、御成門の編集所からスリッパのまま新幹線に乗って京都へ逃げたときにもルイスを着ていた。その分厚い牛革が、いつも私を外界から護ってくれていた。それは社会という荒野、テレビ局という戦場で身を守る鎧だった。

入社して数年が経った頃、ひょんなことで週刊誌に取り上げられた際、「言われてみれば、最近革ジャンなんか着て調子に乗り始めてるなとは思ってたんです。(テレビ局関係者)」などというコメントがあったが(マジで)、こちとら入社1ヶ月目から執拗なほど同じ革ジャンを着続けているし、なんなら青春期の大半を革ジャンとともに過ごしてきているのだから、およそその“テレビ局関係者”なる者は存在しておらず、記者がどこかから拾ってきた革ジャンを着ている私の写真を見つけて適当に書いたコメントというのが関の山だろう。週刊誌記者もまさか私がここまで革ジャンに執着しているとは思わなかったに違いない。どこから嘘がめくれるかなんてわからない。嘘なんてつかないに越したことはない。

そうして10年が経った。
最近では、ルイスを羽織れる期間が秋口と春先だけになってしまった。
太ったからだ。
30歳を超えた途端、腹回りに着々と贅肉が蓄えられてあっという間に8kg増。それまでは革ジャンの中にセーターを着たり、パーカーを着たりすることによって真冬にも耐えることができたが、今ではTシャツ一枚がギリ。チャックは閉まらないし肩まわりもパンパンである。
かと言って、パンクを志しながら自然主義者でもある私は「これもまた私」と割り切っており、痩せる気などさらさらない。しかし、革ジャンなしの人生は裸も同然、あまりにも不安だ。

転機が訪れたのは、今年の夏だった。
妻の誕生日プレゼントを探しに、青山のコム・デ・ギャルソンに立ち寄った時のこと。
入店してものの5分で妻にぴったりのスニーカーを発見し、意気揚々レジへ向かったその道中。店の中心に鎮座するラックに、そいつはぶら下がっていやがったのだ。
ルイスレザーズ「ライトニング」をベースにした膝下まであるフルレングスコート——。
こいつはコム・デ・ギャルソンがルイスレザーズに依頼して特別に仕立てた逸品で、簡単に言えば「カッコ良過ぎて着られない服」のヒエラルキーの頂点に君臨するものだ。そのうえ値段は手持ちのルイス二着分を優に超えており、一般的に「買うものではない」と認識される品物であると言って過言でない。

買った。
私はそれを、妻へのプレゼントとともにレジへ持ち込んだ。
私はそれをずっと求めていたに違いなかった。
パンクもいいけど、私はマトリックスが大好きなのだ。創造される世界、語られる言葉、登場人物の所作、奏でられる音楽、そして常識外れなあらゆるカット、それらが大好きなのだ。
思えば親知らずを抜いたことにより前歯に隙間ができ始め、頭髪が無くなり、体重がみるみる増えたことによって、モーフィアスになる下準備は整っていた。今こそ、マトリックスの登場人物が着るような、カッコ良すぎるマキシ丈のレザーコートを手に入れるべき時なのだった。

妻の誕生日当日。
私はプレゼントを渡しながら、しれっとマトリックスコートの購入を伝えた。伝えた、というか、それを着た状態(真夏)でプレゼントを渡した。妻はその値段とあまりのカッコ良さに顎を外すほど驚いていたが、次の瞬間彼女の口から出た言葉は「前まで着ていたルイスをくれ」だった。私が10年着倒した「コルセア」を羽織った妻はなかなかどうしていい具合であるし、妻も「ちょっと大きめで着るのが洒落ている」などと言って満更でもないらしく、真夏にもかかわらず二人で革ジャンを羽織って洗面所の鏡で2ショットを撮るなどするに至った。
図らずも、ルイスでのペアルック。
竹下通りの怪しい店で破格の革ジャンを買っていたあの頃、いつか妻とルイスレザーズでペアルックを決めることになるなんて思ってもいなかった。
これさえ着ていれば、どんな強風も逆風も熱風も怖くない。
私たちはこれから二人で、ルイスを羽織って歩いていこう。

上出遼平(かみで・りょうへい)
1989年東京生まれ。2011年テレビ東京入社。
『ハイパーハードボイルドグルメリポート』シリーズ(NETFLIX、Paraviなどで視聴可能)の企画、演出、撮影、編集など全ての工程を担う。同名著書『ハイパーハードボイルドグルメリポート(朝日新聞出版)』を上梓。
現在はSpotifyにて音声だけのドキュメンタリー『no vision HYPER HARDBOILED GOURMET REPORT』を配信中。

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メルカリマガジン編集部

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