趣味2021.12.23

「私は人間の屑だ」と爽やかに笑う者にこそ、人の真実と愛がある #05町田康|司馬遼太郎『俄 浪華遊侠伝』

町田町蔵の名前で音楽活動を始め、1981年にパンクバンド「INU」を結成。2000年に小説『きれぎれ』で芥川賞を受賞し、『告白』『ホサナ』『湖畔の愛』など多くの著作で知られる、作家の町田康さん。2016年にはバンド「汝、我が民に非ズ(なんじわがたみにあらず)」を結成し、多岐にわたって創作活動を続けている。

そんな町田さんがずっと手放せない一冊として選んだのは、大阪の侠客を描いた司馬遼太郎『俄 浪華遊侠伝』。本書は町田さんの大阪人としてのルーツを見つめ直すきっかけとなり、主人公の美学に共鳴し、創作活動にも影響を与えたそうだ。
(文・写真提供/町田康、イラスト/久保田寛子、編集/メルカリマガジン編集部、ノオト)


 昭和五十九年頃、大阪から東京に移り住んだ私はその後、都内を転々として五度ほど居所を変え、平成二十年頃には静岡県の熱海市に転居した。その都度、多くの荷物を捨て、書籍もその外ではなかったが、数冊の本に限っては処分せず、ずっと持ち歩いた。

 その本の題名は『俄 浪華遊侠伝』、著者は司馬遼太郎である。

 本書を入手したのは東京に移り住んで間もない頃であった。高田馬場の確かBIG BOXとかいうビルの一階で開かれていた古書市で買ったのである(その頃、私は便利屋の臨時雇いで、その便利屋の事務所があった。私は仕事の帰りに古書市の前を通りがかったのである)。

 その本を手に取るのは初めてではなかった。確か小六か中一の頃、家の近くの書店で「俄」と書かれた分厚い文庫本を手に取り、パラパラめくって、「あまりおもしろそうでないな」と思い、棚に戻したことがあった。
 私はそれを記憶しており、古書市にこれを見つけた折、「あ、この本、あの本やんけ」と思い、思わず手に取ったのである。

 ではなぜこれを棚に戻さず買って帰ったのか。それは私の当時の精神状態と関係していた。どういうことかと言うと、大阪から東京に来た私は、いまよりもよほど大きかった関西と関東の風儀・流儀の乖離、生活様式や文化の違いによって人間関係をうまく構築できず、悩み苦しんでいた。

そこで、これまで考えたことのなかった、大阪人としての自分、ということについて考えるようになった。というのは今の感覚で言うと海外に住んで初めて日本を意識するようになるのと同じであろう。そんなことで、大阪の言葉や風俗風習、文化や歴史についての本は見つければ乏しい生活費を割いて購入し、貪るようにして読んでいたのである。

 そしてこの『俄 浪華遊侠伝』は副題にある通り、実在した大坂の侠客・明石家万吉の話で、カギカッコ、会話、科白の部分はほぼすべて大阪弁、それを見た私は、「あー、それだったら読まないとあかんやんけじゃん」と考え、一金弐百圓也を支払い、これを買って帰ったのだった。

 その本の筋がどんなかというと、既に言った通り、時は幕末。市井に零落して逐電した武士の子、万吉がやくざになり、次第に名を売って大親分となり、大正半ばに九十幾つでこの世を去るまでの話なのだが、これが、幕末の政治情勢なども絡んで滅法おもしろい。

 と言うとただの痛快娯楽小説で、そういったものは他にもあり、そういった本は度重なる転宅によって散佚した。ではなぜこの本だけが手許に残っているのか。

町田康さんの本棚(写真:ご本人提供)

 その理由はふたつあって、ひとつは右に書いた濃厚な大阪の気配で、何度も読み返すことによって、大阪の古い語彙を自分のなかに取り入れるなどして、異郷で挫けそうになる自分自身を鼓舞することができ、ゆえ、手放せなかった、と云うことである。

 そしてもうひとつは、十一歳で無宿人となり、独力で金を稼いで生きていくことになった万吉に、当時、なんらの頼るべき人も、またなんらの蓄えもなく、住む家すらなく、鞄すらなくて紙袋一つ持ち、サンダル履きで東京に出て来て、何処に行ってもアホ扱いされていた自分の境遇を重ね合わせて、強く共感したからである。
 しかし共感したのはその境遇だけではなく、その生き方で、万吉は、「殴られる、斬られる、この二つに平気になれば世の中はこわいものなしじゃ」と述懐し、作者はそれを、

 “兵法者は勝つことを工夫し、そのために惨憺たる修行をし、ついに「勝つ」ことによって自分を磨き、また衣食の道を得たが、万吉のばあいは負けることで男を磨き、負けることで衣食の道を得ようとした”

 と説明、この考えを当時の私は心の底から、「かっこええ」と思った。

 そして間もなく時代はバブルに突入し、人々は経済的な「勝ち」に浮かれ騒いでいたが、私は明石家万吉の影響下、負けることによって男を磨き、衣食の道をえようとしていたため、好景気の波に乗れず、その後もずっとこの本を手放すことができなかった。

 幕末、諸外国の開国要求が続くなか、日本国は内乱状態に陥った。その際、幕府方も宮方も博徒を使い捨てにできる戦力として用いようとした。「そんな都合のいい話があるか」と思うけれど、今も昔も、アウトローを気取る奴ほど権威や名誉に憧れ、権威や名誉を欲するところがあるのは変わらず、「武士に取り立てる」と言われると、それまでは、「俺たちはパンクだぜ。権力ファック!」など言ってた御連中が大喜びでホイホイ行く。

 万吉も葛藤しつつ西国の小藩に召し抱えられて西大阪の警備担当者となる。そのため幕軍として鳥羽伏見の戦いに駆り出され惨憺たる負け戦を経験する。西大阪の警備を任されたとき、配下の者どもに覚悟の臍を固めて貰わなければならない、と考えた万吉は、「わいは人間の屑や」と絶叫し、「屑が死のうと生きようと、天道様にはなんのかかわりもあらへん。せやろ」と大声で言った。

 私はこの「わいは人間の屑や」という宣言にきわめて爽快な、存在の突き抜けを感じ、「わいも人間の屑や」と叫びたい気持ちになり、室内で実際に叫んだ。

 遥か後に、思いも寄らなかったことだが私は小説を書くようになった。私は小説の題名は書き終えて、その後に考える。そしていつも複数の題名を思いつき、どれがよいだろうかと様々に迷う。

 だが、あるとき書いた小説に限っては迷いがなかった。私はその小説を「人間の屑」と題した。筋や主題に通じる点は少ないが、自ら、「私は宝である」と言って自分を大事にする人間を信用できず、「私は人間の屑だ」と爽やかに笑って言う人間にこそ人の真実と愛があると考える癖がずっとあり、どうやらこれからもあり続けるようだ。
 
ゆえ、この本は生涯、私の書棚にあるであろう。うくく。

『俄 浪華遊侠伝』(講談社文庫)
〈わいの生涯は一場の俄や……〉どづかれ屋から身を起した不死身の万吉は、“金こそ命”のド根性と勘で、侠客明石屋万吉となり、米相場破り、果ては幕末維新の騒乱に、親分から侍大将となり、場当り的に生き抜く。その怪ッ態な男の浮沈を、独得な史眼でとらえた異色の上方任侠一代。

町田康(まちだ・こう)
1968年大阪府生まれ。作家。1996年、初小説「くっすん大黒」でドゥマゴ文学賞・野間文芸新人賞を受賞。2000年「きれぎれ」で芥川賞、2005年『告白』で谷崎潤一郎賞など受賞多数。

<ヴィンテージ・ブックス −ずっと本棚にある1冊−>
忘れがたい思い出がある、なぜか分からないけど手放せない――ずっと持ち続け、本棚で”熟成”させて年代物となった、ご自身にとっての「ヴィンテージ・ブック」を紹介していただく書評連載です。
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メルカリマガジン編集部

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