趣味2021.12.28

手放せない理由すらわからない「無意識下」の象徴 #06 羽田圭介|椎名誠『ロシアにおけるニタリノフの便座について』

弱冠17歳で作家デビューを果たし、早くからその才能が注目されていた羽田圭介さん。2015年に『スクラップ・アンド・ビルド』で芥川賞を受賞した後は、メディアに登場する機会も多い。

最新作『滅私』で、必要最低限の物だけで暮らすミニマリストを題材にした羽田さんは、自身も「遊びに来た友人から生活感が薄いと言われる」という程度には、物の少ない生活空間を維持しているという。

そんな中、羽田さんが中学時代からずっと手放さずに所有し続けているのが、椎名誠の初期エッセイ『ロシアにおけるニタリノフの便座について』だ。その背景にある思いを聞いた。(聞き手・構成/友清哲、イラスト/久保田寛子、編集/メルカリマガジン、ノオト)

人はいかに“無意識”に制御されているか

新刊がミニマリストを題材にしているため、僕自身もそういう生活をしているのではないかとよく聞かれますが、決してそういうわけではありません。職業柄、蔵書が多いのは事実ですが、本は倉庫に預けるか、電子版があるならそれを買って半分以上は処分するようにしています。コストは倍かかりますけど、基本的に視界に物があると落ち着かないたちなんです。

不要になった日用品はメルカリで売ったりもしていますよ。たまに自宅に友人が遊びに来ると、「意外と片付いているね」とか「生活感が薄いね」など驚かれることが多いですね。

ただ最近は、書店の店頭で断捨離や片付けのハウツー本がたくさん並んでいるのを見るにつけ、「みんな、そんなに身軽になってどうするの?」と疑問を感じるようになりました。物を減らしてスッキリしたところで、やることがなくてスマホでゲームをやっているなら、あまり豊かな暮らしには思えないですからね。

一方で、もともと自分も片付けが好きで、身の回りの物をできるだけ減らしたい願望は持っています。じゃあそれを小説で書いてみたらどうなるかと思い立ったのが、『滅私』です。

書いてみて感じるのは、人がいかに“無意識”に制御されているか、ということです。

たとえば、なぜか捨てられずにずっと手元に残している物には、無意識下に何か理由があると思うんです。僕の場合、中学生の頃に購入して以来、ずっと持っている椎名誠さんの『ロシアにおけるニタリノフの便座について』も、そんな物の1つです。

とりわけ好きな一節もない。なのに捨てられない

僕が本を読むようになったのは、中学受験のときの現実逃避がきっかけでした。勉強しないと親に怒られるので、机に向かって本を読んで時間を潰していたんです。勉強するよりはマシという、いわば消去法の選択肢でした。

中学生になってからは、埼玉の実家から都内の学校まで、往復2時間近く電車に乗り通学しなければならず、いよいよ暇つぶしの本が手放せなくなりました。そこで入学直後のある日、帰りがけに御茶ノ水駅前の丸善に立ち寄ったところ、たまたま目に留まったのが『ロシアにおけるニタリノフの便座について』です。SF小説からルポタージュまで幅広い椎名誠さんが80年代後半に各誌に書いていた、いろんなエッセイを集めた1冊になります。

その時点ではまだ、とくに椎名さんのファンというわけではありませんでしたが、国語のテストの問題文で見かける名前ではありました。なんとなく気になってレジへ持って行ったのがこの本との縁の始まりです。

今もこうしてずっと持っている理由は、自分でもよくわかりません。何か印象に残っている1編や1節があるわけでもないんです。椎名さんの作品の中でも決してメジャーな部類ではないと思いますし、読み返すこともほとんどありません。

それでも手放せないのは、本をコレクションしたい気持ちが芽生え始めていた時期に買った本だからなのか、あるいは中学校の入学直後に買ったという思い出込みで捨てがたい思いがあるのか……。いずれにせよ、無意識のなせる技というしかないでしょう。

ただ、椎名さんのエッセイというのは、まるで自分がその場所へ行って体験したかのように感じさせてくれます。この作品でいえば、表題作でもあるロシアのトイレがまさにそれで、行ったこともない異国の小さなエピソードが、楽しそうな雰囲気とともに今でも記憶に刻まれています。

そんな読書体験が楽しくて、いろいろ椎名さんの作品を読み漁るうちに、やがて作家という職業に憧れを持つようになりました。当時は無知だったので、椎名さんみたいに無人島へ行って焚き火を起こし、肉や魚を焼いてお酒を飲むのが作家のスタイルだと勘違いしていたんですよ(笑)。

でも、結果としてこうして作家をやっているわけですから、僕にとって大切な出会いだったことは間違いありません。

“細かい裏切り”がずっと続く純文学に傾倒

実はもう1冊、ずっと手放せずに持っている本があります。中原昌也さんの『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』です。

こちらはエッセイではなく小説で、高校3年生のときに『黒冷水』で作家デビューした後に、「純文学をもっと学ばなければ!」と慌てて購入したのを覚えています。というのも、僕が受賞した文藝賞で選考委員をやっていた(※当時)保坂和志さんが、中原さんの作品を褒めているのを目にしたからです。

もっとも、中原さんは一般的な純文学とはだいぶかけ離れた作風であることを後で知るのですが、それでも自分にはない要素が盛りだくさんで驚かされました。

当時の僕は、ミステリーなどのエンタテインメントにはなんとなくお決まりのパターンがあるように感じていて、必ずしも起承転結のような決まった形があるわけではなく、予想のつかない感じが不断な純文学に強い関心を持っていました。これは今でもそうですが、エンタメより純文学のほうが、細かい裏切りがずっと続いていく感じがするんです。『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』を読んで、その気持ちに拍車がかかる思いがしたものです。

でも、どうやら中原さんご自身はこのあたりの初期作品にあまり納得されていないようですね。たしかに、最近の作風とは少し違っているのは事実です。いわばもう取り戻すことのできない、初期ならではの作家性が詰まった作品とも言え、それが貴重で僕はこの本を手放せずにいるのかもしれません。

いつか“必然性”が溜まったときに読み返したい

こうした無意識に働く力というのは、人にとって存外に大きいものだと感じます。その反面、影響というのは簡単に受けられるものではないのだとも思います。たとえば僕がこうして小説を書く傍ら、テレビのロケで旅をしたりしているのも、椎名さんに影響されたのではなく、もともと無意識に持っていた意欲が、椎名さんのエッセイによって触発されたからではないでしょうか。

僕が『ロシアにおけるニタリノフの便座について』や『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』を手放そうとしないのも、いつか必然性が高まってきたときにまたページをめくる気がすると、心のどこかで思っているからです。

今日こうして久しぶりに手にとったのを機に、読み返してみればいいのでしょうけど、目先の読まなければならない資料が山積みです。中学時代のノスタルジーに触れている場合ではないのかもしれません。小説家が目の前のことに躍起になりすぎるのも、格好悪いですが……。

この2冊は、僕にとって無意識がもたらす力を象徴する作品と言えるかもしれません。おそらく、死ぬまで棚に残し続けることになると思います。

椎名誠『ロシアにおけるニタリノフの便座について』(新潮社)
1987年7月新潮社より刊行。椎名誠が『小説新潮』『SFアドベンチャー』『山と渓谷』『月刊カドカワ』などに書いた計7編を集めたエッセイ集。ソ連トイレ事情から地球上の食物連鎖にまで話がおよぶ表題作のほか、少年期を過した幕張を流れる川をカヌー体験する「はじめての川下り」、運転免許取得までの汗と涙と憤怒の「自動車たいへん記」等。

中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』(河出書房新社)
1998年9月河出書房新社より刊行。音楽活動と映画評論を行っていた中原昌也が28歳で上梓した初の小説作品集。「刊行後、若い世代の圧倒的支持と旧世代の困惑に、世論を二分した、超前衛―アヴァンギャルド―バッド・ドリーム文学の誕生を告げる、話題の作品集」(河出書房新社紹介文より)。

羽田圭介(はだ・けいすけ)
1985年生まれ。高校在学中の2003年に「黒冷水」で文藝賞を受賞しデビュー。2015年に「スクラップ・アンド・ビルド」で芥川賞を受賞。主な著作に『メタモルフォシス』『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』『成功者K』『ポルシェ太郎』『Phantom』、エッセイ『三十代の初体験』など。

▼『滅私』(新潮社、2021/11/30発売)
必要最低限の物だけで暮らすライターの男。物だけでなく人間関係にも淡泊で、同志が集うサイトの運営と投資で生計を立て、裕福ではないが自由でスマートな生活を手に入れた。だがある日、その人生に影が差す。自分の昔の所業を知る人物が現れたのだ。過去は物ほど簡単には捨てられないのか。更新される煩悩の現在を鋭く描く。
https://www.shinchosha.co.jp/book/336112/
<ヴィンテージ・ブックス −ずっと本棚にある1冊−>
忘れがたい思い出がある、なぜか分からないけど手放せない――ずっと持ち続け、本棚で”熟成”させて年代物となった、ご自身にとっての「ヴィンテージ・ブック」を紹介していただく書評連載です。
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メルカリマガジン編集部

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