優れたフィクション作品のすべてがそうというわけではないが、大ヒットを記録する――つまりは多くの大衆を引きつける――作品には、企画の当初は考えてもいなかった偶然をも巻き込む力を宿していることがたまにある。2015年から2020年にかけて、麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が出会ってから別れるまで(厳密に言うと別れた後に一度再会するまで)の5年間の日々をクロニクル的に描いた坂元裕二脚本、土井裕泰監督の『花束みたいな恋をした』も、そんな作品の一つと言っていいだろう。
『花束みたいな恋をした』はコロナウイルスのパンデミックが本格化する直前の2020年初頭に撮影を終え、多くの人々が外出自粛を余儀なくされるようになっていった時期にポストプロダクションがおこなわれ、2021年1月29日、首都圏を中心に発出された2回目の緊急事態宣言の真っ最中に公開された。実はエピローグのナレーションでは間接的に今回のパンデミックにも少しだけ触れられているのだが、2010年代後半の東京を描いた本作は、結果的に「プレ・パンデミック」と呼ぶべき、私たちがマスクなしで気ままに街に出歩いていた(今のところ)最後の5年間を擬似的に追体験できる作品にもなっている。
作中で数えきれないほどの音楽、小説、演劇、コミックなどの固有名詞が飛び交う『花束みたいな恋をした』。既にいろんな場所で語られているように、それらを手がかりに作品の時代背景や、当時そこに漂っていた時代の空気を読み解くことも可能だろう。しかし、本連載ではそうしたポップカルチャー/サブカルチャーのコンテンツではなく、主人公2人の生活を取り囲むほとんどすべての事柄も(他の多くの日本映画と違って)ディテールまでしっかりと描かれているところに注目して、たった1年前までとはすっかり様相が変わってしまった東京の街、そして身近にあるモノについて考えてみたい。
もちろんパンデミックはいろいろな出来事のきっかけになったわけだが、本当のところ、もう随分前から世の中は決定的に変わりつつあって、パンデミックはそのことを露わにしただけ、あるいはそのスピードを少し早めただけとも言えるかもしれない。『花束みたいな恋をした』がここまで多くの観客に支持された理由には、そんな近過去への無意識のノスタルジーもあるような気がしてならない。(編集/メルカリマガジン編集部、イラスト/二階堂ちはる)
京王線
絹の実家は飛田給。麦のアパートは調布。2人が一緒に暮らすために借りた、多摩川沿いの古いマンションの最寄り駅も調布。序盤のシーンで「どうして絹はわざわざお母さんから頼まれたトイレットペーパーを、出先の明大前で買うんだろう?」と思ったが、Googleマップで調べてみると、飛田給の駅前(特に南口側)には遅くまでやってるドラッグストアがないのだった。
麦と絹が最初に出会うのは、終電をギリギリで乗り逃した明大前駅。ちなみに作中で下り電車の終電は1:03になっているが、都内のJR各線同様、京王線も本作の公開前の2021年1月20日からは終電の時間が14分ほど早まって、明大前下り方面の終電は0:49になっている。ダイヤの改正は緊急事態宣言の発出がきっかけとされているが、いつ元通りになるのかは今のところ不透明(このまま戻らない可能性も?)。もし「2021年以降の世界」の大学生だったら、2人は出会ってなかったかもしれない。
多摩川
2人で暮らし始めた麦と絹は、バイトの後に駅で待ち合わせをして、そこから多摩川べりを一緒に歩いて帰宅する。作中で語られるように「駅から徒歩30分」なんて辺鄙な物件が本当にあるのかと訝しんでGoogleマップで調べてみたら、多摩川沿いのマンションにはそのくらいかかりそうな物件がいくつかあった。
眺望的には最高の「川沿いのマンション」。しかし、気候変動の時代においてはリスクも考えなくてはいけないかもしれない。パンデミック同様、こちらも作中ではエピローグでさり気なく触れられているだけだが、2019年10月に東京を直撃した台風19号は「100年に1度」の豪雨で多摩川を氾濫させて、調布市内の一部住宅地にも浸水被害をもたらした。
Googleマップ
物語の序盤の小ネタかと思いきや、最後にオチとしても重要な役割を果たすことになるGoogleマップ(本稿を書く上でも早速使いまくってる)のストリートビュー。日々アップデートを繰り返しているGoogleマップの中でも、ストリートビューは最も進化が著しい機能の一つ。最近では最新の街並みの画像だけでなく、過去の画像までチェックできることをご存知だろうか?
ところで、こんなに我々の生活において身近なGoogleマップも、これまで日本の映画やドラマにはほとんど出てきたことがない。実はGoogleマップに限らず、他の検索サイトやソーシャル・メディアや有名サイト(このメルカリも?)も、作中でロゴを出して使用するには、面倒な手続きを厭わずにちゃんと許可をとらないといけない。そして、申請をしたからといって必ずしも許可が下りるとは限らない。もしかしたら、日本のGoogle社には坂元裕二作品のファンがいたのかもしれない(最終的には結構そういうことで決まるそう)。
アサヒスーパードライ
Googleのように許可は必要なくても、日本の映画やドラマは実際の商品が画面に映ることを避けがち。ドラマの場合は放送枠のスポンサーや、CM契約をしている出演者(の事務所)への忖度。映画の場合は多業種にまたがった製作委員会システムの都合や、やはりテレビ放送される時のスポンサーや、CM契約をしている出演者(の事務所)への忖度だったりする。美術部が適当にでっちあげた架空の商品が画面に映ることが、作品のリアリティを大きく損なうにもかかわらず。
例えばビールをとっても、『花束みたいな恋をした』では麦と絹はアサヒスーパードライ片手に夜の街を歩く。実は2019年から菅田将暉はアサヒスーパードライのCMに出演してもいるのだが、こうしてちゃんと商品が画面に映っているのは、本作がメジャー配給の作品ではないことも大きいだろう。
1987年に発売されたアサヒスーパードライは大ヒット商品となって、一躍アサヒをビール・マーケットのシェア1位へと押し上げた。しかし、2010年代を通して不動の1位だったアサヒビールも、2020年には11年ぶりにキリンビールに逆転されることに。また、同じ2020年にはアルコール類全体のマーケットにおいて、より廉価な第三のビールが遂にビールのシェアを追い越すという現象も起こった。若者にとって、もはやビールは贅沢品?
ケーブルイヤホン
Appleが2016年に販売開始したAirPodsが起爆剤となって、その後、急速な勢いでワイヤレス化が進んでいるイヤホンのマーケット。でも、『花束みたいな恋をした』では、2015年も2020年も恋人たちはケーブルイヤホンの右耳と左耳をシェアして一緒に音楽を聴いている。二人でケーブルイヤホンを分け合うとちょうどケーブルのかたちがハート型になるーーなんて話もあったりして、やはり映画でもシーンとして画になるのだが、それも消えゆく風景となってしまうのだろう。
白のジャック・パーセル
ケーブルイヤホンのように失われつつあるモノが存在する一方で、今後も定番として安定した人気が続きそうなのが、麦と絹が偶然お揃いで履いていた白のジャック・パーセルだ。それを示唆するように、終盤のクライマックスとなるファミレスのシーンでは、清原果耶と細田佳央太が演じる若いカップルの2人も(こちらも偶然)お揃いで履いていた。
1930年代から1940年代にかけて、バドミントン界において不動の世界チャンピオンだったジャック・パーセルの名前がそのまま冠せられたジャック・パーセルが発売されたのは、実に約90年も前の1932年(当時はコンバース社ではなくスポルディング社)。1940年代には、ほぼ現在と同じデザインとなっている。歴代の愛好者もジェームズ・ディーンからカート・コバーンまでと幅広い。ところで、絹が嫌いな異性のタイプとして真っ先に挙げた「白いデニムを履いてる人」。白デニム、そんなにダメですかね?(よく履いてます……)
ジョナサン
坂元裕二脚本作品といえばファミレス。本作の撮影で使用されているのは都内にある複数のジョナサン(実は行きつけのお店も使われてました)。店員として出演しているAwesome City ClubのPorinは、本当に以前ファミレスでバイトをしていたという(ジョナサンではなくてサイゼリヤとのこと)。
10代や20代の頃、友達や、友達以上恋人未満の異性と、アルコールを飲まなくても始発までダベっていられた場所として、個人的にも思い入れの深いファミレス。ところが、働き方改革の影響もあって、近年は24時間営業のファミレスがほとんどなくなりつつあって、23時とか24時には閉店してしまうところも増えてきた。現在、都内のファミレスはどこもコロナウイルス感染拡大防止のため時短営業中だが、コロナが明けた後も、閉店時間前倒しの流れはきっと止まらないだろう。さらに、今回のパンデミックを機に休業からそのまま閉店してしまう店もこのところ目に見えて増えてきた。
炭焼きレストランさわやか
静岡県内(現在34店舗)にしかないことで知られる、超人気ハンバーグ・レストラン・チェーンの炭火焼きレストランさわやか。静岡県(現)菊川市に1号店ができたのは1977年のことだが、テレビ番組などをきっかけに東京でもその噂が広がって、わざわざ「さわやか」のためだけに遠出するような人が続出するようになったのは、2000年代後半。麦と絹が最初に訪れた(そして待ち時間の長さに挫折した)2010年代の半ばには、すっかりその名前だけは全国区となっていた。ちなみにコロナウイルスのパンデミックが起こる前年、2019年のゴールデンウィークには待ち時間520分(嘘でしょ?)を記録したお店もあるとのこと。
コリドー街
有楽町駅と新橋駅の間の高架沿いのレストランやバーが連なった通り、コリドー街。ここが都内有数の、というかサラリーマンとOLに限定されているという点ではほとんど唯一の出会いスポットというかナンパ・スポットとなったのは2010年代の初頭。作中、「何ーラ飲みます?」と絹に話しかけるチャラいサラリーマンのセリフはあまりにもリアル。コロナ明け、24時を過ぎても止むことのなかったあの喧騒は戻ってくるのだろうか?(どっちでもいいけど)
パズドラ
就職した会社での慣れない営業職で疲れきった麦が絹に言い放った「もうパズドラくらいしかできない」は、名セリフだらけの『花束みたいな恋をした』の中でも、そのリアルな痛々しさによって特に印象に残る一言だった。ガンホー・オンライン・エンターテイメントが2012年にリリースしたパズル&ドラゴン、通称パズドラは、パズルゲームとRPGを組み合わせたスマホゲームとして爆発的に大ヒット。その後、多くの類似ゲームを生み出すこととなった。人気のピークは過ぎたものの、2020年11月には国内の累計ダウンロード数が5600万(!)を突破。もし一度もプレイしたことがないとしたら(自分のことだ)、あなたは完全にマイノリティということになる。
地球の歩き方
麦の部屋の本棚にずらりと並んでいた『地球の歩き方』。そこまで海外旅行を頻繁にしているようにも見えない麦だが、バックパッカーのバイブルとして人気を集めた1980年代から、同書は「いつか行きたい国や街」に思いを馳せるための本でもあった。そんな習慣が今の若者にも受け継がれているのかとホッとしていたら、ちょうど『花束みたいな恋をした』が公開された2021年1月、1979年から長年同書を刊行し続けてきたダイヤモンド社から、学研グループに事業譲渡がおこなわれた。
2020年に発売された、初めて国内の都市を対象にした『地球の歩き方 東京』がベストセラー化した矢先ということもあって不意をつかれたが、その背景にはコロナウイルスのパンデミックによって海外旅行の関連事業の環境変化が影響しているという。学研グループに譲渡されてからも『地球の歩き方』シリーズ自体の刊行は続いているが、その主流は雑学本へとシフトしている。
原美術館
画面には出てこないものの、麦と絹が付き合い始めにデートに行った場所としてナレーションで語られる原美術館。品川駅から徒歩約10分の場所にありながら、ゆったりとした敷地の中にオシャレなカフェも併設されていて、まるでリゾート地にきたような独特の空気感を持つ美術館。「おお、今もデートの定番なのか」と思ったら、こちらもちょうど2021年1月に42年間の歴史を閉じてしまった。
SMAP
「2人でSMAPの『たいせつ』聴いたなあ。SMAPが解散しなかったら私たちも別れなかったかな?」。こちらもナレーションにしか出てこないが、2010年代のうちに幕を閉じてしまったものとして、SMAPの存在は麦や絹のようないわゆる「サブカル好き」の若者にとってもそれほど大きなものだった。SMAPの解散騒動が起こったのは2016年。麦と絹が一緒に暮らすようになったばかりの頃だ。『たいせつ』の歌詞の中にはこんなフレーズがある(中居正広のパート)。
誰とも似ていたくない、ずっと前の僕じゃなくてよかったよ
相手の中に自分とそっくりの「ユニーク」さを見出したことで引かれあった二人には、実のところ最初から最後まで「ユニーク」なところはどこにもなかった(白のジャック・パーセルのように)。でも、5年の年月を経て、平凡であることの本当の「たいせつ」さに気づけたのだとしたら、それはそれでとても尊いことなのではないだろうか。