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光の彫刻「AKARI あかり」を生んだイサム・ノグチが伝えたかったこと

和紙を使った照明「AKARI あかり」や有機的なフォルムの「コーヒーテーブル」を生み出したイサム・ノグチ(1904-1988)。彫刻家である彼は既存の枠組みにとらわれず、屋外彫刻、庭園、遊具、陶器、家具、舞台装置などあらゆる創作領域の境界を越え、彫刻の可能性をひたすら切り拓いて生きたエネルギッシュな芸術家だった。

さまざまな作品のなかでもとくに照明シリーズ「AKARI」は、35年の歳月をかけ約200種類以上の型がつくられ、イサム自身にとっても「誇れる仕事」と自負するライフワークとなった。岐阜の提灯から発想を得た「AKARI」は「光の彫刻」とも呼ばれ、数ある現代のインテリアプロダクトにおいて日本の伝統美を象徴する照明作品となっている。 

プロダクトが誕生するまでのストーリーやフィロソフィーにふれることで、モノの価値について考える「モノヒストリー」。第7回はAKARI誕生の物語にスポットをあてながら、イサムが作品を通して私たちに伝えたかった思いに迫ってみたい。

イサムと、1945年の『14人のアメリカ人』展(ニューヨーク近代美術館)で絶賛された大理石を組み合わせて作った彫刻作品『クロノス』。モチーフとなったクロノスは、ギリシア神話の大地および農耕の神

医者から芸術家へ。野口英世の助言「君は芸術家になるべきだ」

イサム・ノグチは1904年、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれた。父は英米文学に通じ詩人としても活躍した野口米次郎(1875-1947)。1893年からのアメリカ滞在中、イサムの母、作家、教師、ジャーナリストだったレオニー・ギルモアと知り合った。ふたりの関係は紆余曲折を経た末、米次郎だけが日本に帰国。のちに米次郎とレオニーは離別し、米次郎は日本人女性と新しい家庭を築くことになる。

1907年、イサムは母と共に日本に移り住む。米次郎にはすでに別の家庭があったため、父子の時間を多く持つことはできず、複雑な環境のもと少年時代を過ごしたという。その後、第一次世界大戦で息子を徴兵されることを恐れた母レオニーによって、アメリカ・インディアナ州の全寮制学校へ入学させられる。1918年夏、イサムはひとりで海を渡った。まだ13歳だった。

約4年後、首席で高校(※1)を卒業したイサムは芸術家への憧れを抱きつつも、恩師の薦めもあり、1922年に医者を目指してニューヨーク市のコロンビア大学に入学。ほどなく、高名な細菌学者、野口英世(1876-1928)にめぐり会う。のちの回想によると、博士は彼の世話をやくかたわら、「君は医者になるべきではない。芸術家になるべきだ」と背中を押してくれたという。芸術家としての資質を見抜いていた母の助言にも耳を傾け、1924年、イサムはついにレオナルド・ダ・ヴィンチ・アート・スクール(ニューヨーク市にあった美術学校)の夜間部(彫刻専攻)に通い始めた。

「私はなにか運命に導かれてきたように思う」。当時の自分を振り返った言葉だ。「何者でもなく、なにも期待せず、自信もなかった」と述懐する青年は、芸術家、彫刻家として生きていく覚悟を決め、コロンビア大学を中退。1927年には、グッゲンハイム奨学金を得て、初めてパリに渡ることになった。

(※1)インディアナ州のローリング・プレーリー市のインターラーケン校に入学するも、経営上の理由から閉鎖となり、同校の創設者エドワード・ラムリー博士の世話で同州ラ・ポルト市のハイスクールを卒業。

有機的フォルムの「コーヒーテーブル」のルーツ

パリでは、抽象彫刻の巨匠コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)のアトリエで、半年間無償で助手として働く機会を得た。1929年、パリからニューヨークに戻ったイサムは、肖像彫刻(頭部彫刻)の依頼仕事でまとまった資金を手に入れると、1年もたたないうちに、再びパリに渡り、その後東洋へと旅立った。中国・北京を経て1931年、約13年ぶりに日本の土を踏み、京都の陶芸工房に滞在中、日本庭園や博物館で目にした埴輪像に大きな感銘を受けたという。

1932年、ニューヨークで精力的に制作活動を始めたイサムは、彫刻家として少しずつ認められるようになっていく。一方で、他方面から依頼を受け、アメリカ舞踏界の舞台装置(1935)や、無線インターフォンのような工業製品「ラジオ・ナース」(1937)を手掛けた。さらには、1939年、当時のニューヨーク近代美術館(MoMA)館長の自邸用テーブルを創作する。このテーブルこそが、現在、イサムの名作家具のひとつとして名高い「コーヒーテーブル」の原型であった。

左が1939年制作版。右がその後、ハーマンミラー社から発売され、生産終了、復刻などを経て現在に至る「コーヒーテーブル」。1947年ファーストモデルの脚は、ウォルナット(くるみ)、バーチ(樺)、チェリー(桜)の3種の木材で製作された。なお、日本でイサム・ノグチの正規品を扱っているのはヴィトラ社(1950年創業のスイスの家具メーカー)である

その頃の作風は、パリで学んだものの形を極端に抽象化させる手法に、中国や日本への旅で学んだ陶芸、水墨画など東洋的な文化を混在させたものだった。異なる素材を相互に組合せたり、自然に着想を得た有機的なフォルムを抽象化し非対称な曲線をつくることも特徴だった。1939年に制作された初期モデルのコーヒーテーブルは、そんなイサムの作風がダイナミックに表現された彫刻的作品となっている。

その後、このテーブルの自然や生物を連想させる「バイオモーフィズム(Biomorphism)」的佇まいに感銘を受けたハーマンミラー社(1923年創業、アメリカミシガン州の家具メーカー)のデザイン部長だったジョージ・ネルソン(1908-1986)は、1947年、イサムに「コーヒーテーブル」製品化の話を持ち掛けた。ハーマンミラー社の依頼を受け、イサムはテーブルの脚を同じ型でふたつ削り出し、一方のパーツを反転させて組み合わせた。彼は11~12歳の少年時代、指物(さしもの、金釘を使わず木工を組み立てる日本独自の技法)を学んだこともあったので、テーブルのふたつの脚のつなぎ目には、その技が活かされたという。

造形がより洗練された「コーヒーテーブル」は、1947年、ハーマンミラー社から正式に発売された。イサムはつねづね「彫刻の機能とは、単なる建築の装飾とか、美術館の財宝であることを越えるものだ」と明言していた。その思いを汲んでか、当時のハーマンミラー社の販売カタログでは、「コーヒーテーブル」を「実用のための彫刻」という表現で紹介している。イサムはハーマンミラー社と良好な関係を築き、1949年から発売された「ラダーコーヒーテーブル」と「スツール」、その後も「ダイニングテーブル」(1957)などの名品を生むことになる。

彫刻と光をひとつにしたい

ハーマンミラー社から「コーヒーテーブル」が発売された頃、イサムは、内部に電球を取り入れた「ルナーの旅」(1947)という彫刻作品を作っている。

当時の新素材マグネサイト(マグネシウムの炭酸塩鉱物)を使い、1959年に廃船となった客船アルジェンティナ号の壁面照明として作られた『ルナーの旅』(1947)。この頃、イサムはこのように彫刻の中に光を内包する彫刻シリーズ「ルナー」をいくつか手掛けている

イサムは、第二次世界大戦中、自ら志願してアリゾナ州の日系アメリカ人収容所に約半年間入所していた。アリゾナの地を照らす過酷な太陽の光は、イサムに大きなインスピレーションを与えた。強力な陽光を注がれた大地は、内側から光を放つ反射表面のように見え、釈放後、その残像を心に留めたまま人工的な明かりに満ちたニューヨークに戻ったイサムは「彫刻と光とがひとつになることに魅せられるようになった」と語っている。そんな経緯から生まれた「光を発する彫刻」は、その後、後半生のライフワークとなった「AKARI」へと発展していくことになる。

1949年、45歳になったイサムは再び奨学金を得て、ニューヨークを離れることになった。彫刻のアイデアを得るために約1年の間世界の古代遺跡を巡り、1950年、約19年ぶりに日本に到着する。戦災に遭った慶應義塾大学校舎と庭園の再建事業(※2)にも携わり、約4ヵ月間の滞在中、文化人、芸術家とも交友を深めたイサムは同年秋、アメリカに帰国し、翌年1951年に再び来日。同年の6月、広島平和記念公園の東西両端に位置する平和大橋と西平和大橋の設計の仕事(※3)で広島に向かう途中、鵜飼いを見物するために岐阜県の長良川に立ち寄ることになった。当時、地元の伝統工芸品である岐阜提灯産業は低迷していた。岐阜市長は提灯産業の復興を願い、イサムに協力を願い出たという。市長とともに提灯工場(※4)を訪れたイサムは、そこですっかり岐阜提灯に魅了される。「彫刻と光をひとつにする」。その日から、約35年にわたる、「光の彫刻」づくりが始まることになった。


(※2)建築家・谷口吉郎(1904-1979)の依頼を受け、文学部教授を務めた父・米次郎の記念室「新萬来舎」のインテリア・デザインと空間造形、そして庭の彫刻などを手掛けた。
(※3)建築家・丹下健三(1913-2005)の推挙により、広島市内を流れる川に架けられたふたつの橋を設計。ノグチ自身が、平和大橋を「つくる」、西平和大橋を「ゆく」と命名した(共に1952年3月完成)。
(※4)現・株式会社オゼキの提灯工場。オゼキは1891年創業の岐阜提灯の老舗工房。1951年からイサム・ノグチの「AKARI」シリーズ制作に協力、現在も正規品を製作、販売している。

日本の伝統美が彫刻に昇華された「AKARI」の誕生

竹ヒゴと和紙を使い1点づつ熟練の職人により作られる、さまざまなタイプの「AKARI」シリーズ。最もスタンダードな丸いくす玉タイプ(写真左から2番目)は、誕生当初、竹ヒゴの間隔は均一に整えられていたが、その後、あえて間隔を不規則にしたDシリーズ(1963~)が生まれた。「D」は「でたらめ」を意味するという

1951年8月、アメリカに一時帰国していたイサムのもとに岐阜から4点の試作品が届けられた。約2ヵ月前、提灯工場見学を終えたその晩、イサムが起こした図案を元にしたものだった。初期のものは、提灯特有の木の口輪が上下に施され、竹ヒゴの間隔も細かく均一で提灯の原型により近いものだったという。同年の10月、イサムは再び岐阜を訪れ、楕円形、円筒形、卵を半分に切ったような形など、約15種類ほどの型を制作した。その中には、小さく折りたたんで収納できる組み立て式のものもあった。彼はそれを封筒に入れ、親しい友、バックミンスター・フラー(1895-1983)(※5)に送ったとも伝えられている。

(※5)アメリカの建築家、発明家、思想家、詩人、デザイナー。球に近い正多面体によるジオデシック・ドームなどで知られる。

僕は自分の作品をAKARIと名づけた。ちょうちんとは呼ばずに。漢字の『明かり』は『日』と『月』という漢字からできている。近代化した生活にとって、自然光に近い照明は憧れであり、和紙を透かしてくる明かりはほどよく光を分散させて部屋全体に柔らかい光を流してくれる。AKARIは光そのものが彫刻であり陰のない彫刻作品なのだ」    

そんなイサムの気持ちから命名された「AKARI」は、1952(昭和27)年9月、鎌倉の神奈川県立近代美術館で開催された「イサム・ノグチ展」へ出展され、世の中にお披露目された。その後もイサムは何度も岐阜を訪れ、約35年にわたり200種類以上もの「AKARI」を制作し続けることになる。

イサムが「光の彫刻」と呼んだ「AKARI」。スタンドタイプには、鏡餅(写真左)やテレビ(写真右)などをモチーフにしたNシリーズ(「N」は「ニュー(新しい)」を意味する)がある。イサムは「AKARI」シリーズをことのほか気に入っていたらしく、「家を建てるのに必要なのは、部屋と畳とアカリだけだ」と口にしていたという

「AKARI」には、後世に向けた思いも託されていた。イサムは1950年の日本滞在中、東京の百貨店で、個展を開催している。出展作品を制作するため、めまぐるしいスケジュールの合間をぬって、日本の工業デザイン発展のために設立された工芸指導所 (川崎市・津田山)に通いつめた。その間、そこに集う日本のデザイナーたちをこんな言葉で鼓舞していたという。「日本独自の美しいもの、新しいものを生み出して世界に発信してください」。

「AKARI」はまさに、日本の美を尊ぶイサムの思いが結実した作品だったのだ。

「すべては彫刻である」

「AKARI」と同時に、屋外空間の仕事でも注目を集めるようになっていたイサムは、1956年に依頼されたパリ・ユネスコ本部の庭園制作をきっかけに世界中を飛び回るようになった。以前より一層石に興味を持ち、世界各地の石の名産地を巡り始めると、1964年、花崗岩のダイヤモンドとまで呼ばれる高級石材「庵治石 (あじいし)」の産地、香川県高松市郊外の牟礼町(むれちょう)を訪れる。そこで出会ったのが、生涯の制作パートナーとなる石職人・石彫刻家の和泉正敏(1938-2021)だった。以後、イサムはニューヨークと牟礼の2ヵ所にアトリエと住まいを構えて制作に励むようになる。

牟礼の仕事場でのイサム(写真右)と和泉正敏(1970年頃)。「ノグチ先生は、太平洋の、高知の海の荒波を鯨のようになって泳ぐのが好きな豪快な人で、瀬戸内の海は波がちょっと小さ過ぎて泳ぎにくいんだ、とおっしゃってました」。のちに「イサム・ノグチ庭園美術館」(1999)を開館させ、イサム・ノグチ日本財団の理事長も務めた和泉はそんな言葉を残している

後年、石への関心とともにイサムは長年大切に抱いていたビジョンの実現にも情熱を傾けた。約35年前、「未来の彫刻は大地の上にあるものかもしれない」という直感から生まれたビジョンは、子どもたちが自然の中で彫刻と戯れながらおおらかに遊びまわれる「プレイグラウンド」構想へと発展。「横浜国立こどもの国」(1965)は、そんなイサムの「プレイグラウンド」構想が初めて形となった公園となった。

その後も、アメリカを始め日本各地の公園にイサムの手掛けた遊具彫刻を設置したプレイスペースが造られていった。そして最晩年、「プレイグラウンド」構想の集大成として、北海道・札幌市の市街地で、ごみの埋立地として使われていた土地に建設されることになったのが「モエレ沼公園」だった。

イサムは1940年頃から、石をはじめさまざまな素材をもとに多くの遊具彫刻を手がけ始めた。よじ登ったり、穴の間をくぐったりして遊べる八面体のプレイ・スカルプチャー「オクテトラ」。ギリシャ語の「8=オクト」と「4=テトラ」を組み合わせた名前。イサムは「原始、人がそうしたように、子どもたちにも直接、大地と向き合ってもらいたい」と語っていた

だが残念なことに、イサムはこの「モエレ沼公園」の完成を見ることはできなかった。1988年に札幌を訪れてから8カ月後、自らの誕生パーティの席で公園の約2000分の一の模型を披露した翌月、イサムはニューヨークで病に倒れ、帰らぬ人となった。84歳だった。

芸術がよりよい生活と、よりよい生存の可能性に役立つよう、ひとりの芸術家が影響を及ぼすことができるような場所が地球上のどこかにある

そう信じ続けたひとりの彫刻家、イサム・ノグチの思いが詰まったモエレ沼公園は、彼の死後、17年の時を経た2005年、最後の施設である「海の噴水」の完成とともにグランドオープンした。東京ドーム約40個分の広大な敷地内には、ガラスのピラミッド「HIDAMARI」、公園内最大の造形物の「モエレ山」、高さ30mの丘「プレイマウンテン」をはじめ、スウィング(ブランコ)、スライドマウンテン(すべり台)、オクテトラ、ジャングルジムなど、イサムの遊具彫刻126基が配置され、現在は札幌市民はもとより、遠方から訪れる多くの人々に愛される公園となっている。
(執筆/岸上雅由子、イラスト/黒木仁史、監修/河内タカ、編集/メルカリマガジン編集部)

(参考文献)
「イサム・ノグチ 生涯と作品」新見隆 著
「芸術家たち 建築とデザインの巨匠 編」河内タカ 著
「1986年『京都賞』受賞 イサム・ノグチ講演録『私の歩んできた道』」
The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum
イサム・ノグチ庭園美術館
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メルカリマガジン編集部

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