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「最高の座り心地を目指す」。チャールズ・イームズ夫妻とミッドセンチュリーの名作椅子が誕生するまで

「ミッドセンチュリー」と呼ばれる20世紀半ば、アメリカでインテリア業界に旋風を引き起こした夫婦がいる。チャールズ・イームズ(1907~1978)と妻のレイ・イームズ(1912~1988)だ。

第二次世界大戦後、高度成長により人々の暮らしが変わりつつあったアメリカでは、「手ごろで高品質」なプロダクトが求められていた。そんな世相の影響を受け、彼らは最新技術で成型された合板木材や最先端のプラスチック素材を用いた、丈夫で美しい椅子を世に送りだしたのである。

いまや働く場も、暮らす場も、自宅で過ごす時間が多くなった私たちの日常生活において、椅子はかけがえのない存在だ。

プロダクトが誕生するまでのストーリーやフィロソフィーにふれることで、モノの価値について考える「モノヒストリー」。第4回は、半世紀を経た現在でもその人気が衰えない、イームズ夫妻が生んだ名作椅子の誕生秘話を紹介する。

3次元の座り心地を目指して

1907年、アメリカのミズーリ州セントルイスで生まれたチャールズ・イームズは、幼いころから絵を描くことが得意だったという。チャールズが12歳のころ父親が他界してしまったため、家計を助けるべく働いていた製図事務所の仕事を通し建築に関心を持ち、18歳でセントルイス・ワシントン大学建築学科に入学した。しかし、地元の建築事務所で働きながらだったため学業がおろそかになり、また大学の教育方針ともそりが合わなかったチャールズは放校処分を受けてしまう。その後、友人のチャールズ・グレイと建設設計事務所を始めた後、自身が31歳(1938)の時に、ミシガン州の名門クランブルック美術アカデミーのデザイン科(※1)に奨学生として入学。後年には教員としての職を得ることとなった。

彼はそこで、校長エリエル・サーリネンの息子エーロ・サーリネン(※2)と共に、家具デザインの製作に熱中し、長きにわたる椅子のデザイン史のなかでも画期的なチャレンジを試みる。紀元前に椅子が誕生して以来、あらゆる時代を通しその素材は木材が主流だった。薄い板を重ね合わせた「合板」(※3)の成形技術も古くから使われていたが、20世紀に入りその技術は進化を遂げ、独立した背もたれと座面各パーツを継ぎ合わせる従来の製法とは異なる、1枚の合板を曲げ、背もたれと座面を一体成形する製法を可能にした(※4)。チャールズとエーロは、さらにその先を見据える。人が心地よく腰掛けられるよう、平らな合板に身体の線にフィットする3次元的設計を加えようとしたのだ。椅子の表面も布や皮などで覆わず、合板の木肌の質感をそのまま活かそうとも考えた。

試行錯誤の末、完成した椅子はそのほか8点の家具と共に1940年、MoMA(ニューヨーク近代美術館)の主催する「住宅家具のオーガニックデザイン」コンペティションに出品され、見事グランプリを受賞した。とはいえ、彼らの椅子は高い評価を得たものの、改善点も残された。合板で3次元曲面を実現しようとすると、当時の技術では木肌の表面に細かいヒビが入ってしまったため、布張りで仕上げるしかなかったのだ。後年、この椅子のデザインは「オーガニックチェア」と呼ばれ復刻され、現在も人々に愛される名品となっている。

読書用の椅子として、人の身体の凹凸に沿うよう3次元曲面を試みた「オーガニックチェア」。イームズ夫妻の名作椅子「DCW」、「シェルチェア」の原点とも言える椅子だ

※1アメリカ版バウハウス的拠点として1932年に創設された美術・デザイン・建築系の大学院大学

※2フィンランド出身の建築家・プロダクトデザイナー(1910-1961)。父のエリエル・サーリネン(1873-1950)も著名な建築家・都市計画家・教育者

※3合板技術の起源は、古代エジプト時代までさかのぼるとされるが、木材を板にする機械(ベニヤスライサー)が制作されたのは1830年頃

※4 建築家アルヴァ・アアルトとその妻アイノによって設計された椅子「パイミオチェア」(1931)で、いち早く背座一体成形製法が用いられた

木製の骨折用添え木「レッグ・スプリント」を開発

「オーガニックチェア」の完成には、もうひとり、その後のチャールズの人生に欠かせない存在となった唯一無二の女性、レイ・カイザーも関わっていた。チャールズより5歳年下のレイは、1912年カリフォルニア州サクラメント生まれ。ニューヨークの美術学校を経て、チャールズが教員として籍を置いていたクランブルック美術アカデミーに入学。そこで初めてチャールズと出会い、彼がエーロと共に手掛けていた「オーガニックチェア」の製作をサポートした。レイは抽象絵画を学んでいたため、クレーやカンディンスキー、モンドリアン(※5)などの絵に精通し、色彩センスもとびぬけていたという。そんな彼女の才能と人柄はチャールズを魅了した。彼は既に既婚者だったが、レイに熱烈なラブレターを送り続けた。そして1941年初夏。前妻と離婚したチャールズはレイと再婚。共にアメリカ中西部のクランブルック(ミシガン州)を離れ、アメリカ西海岸のロサンゼルスへと拠点を移すこととなった。

同年、夫婦となった2人に、転機となる出来事が起こる。ハリウッドの映画会社で美術スタッフとして働きながらなんとか新婚生活を支えていたチャールズに、友人から「戦場で負傷兵の骨折した足を固定するための添え木が使いにくい」という相談がもちかけられたのだ。

その頃、軍で使われていた金属製の添え木は移送時の振動で傷を悪化させてしまうという欠点があった。何か解決策はないか。夫妻は「オーガニックチェア」製作後もひそかに開発を続けていた成形合板の技術を添え木に活かせないかとアイデアを練り、自転車の車輪空気入れと加熱コイルで作った自家製の装置で試行錯誤を重ねた末、合板による木製の添え木「レッグ・スプリント」を完成させる。

脚の自然な曲線に沿うよう開発された3次元立体成形の木製添え木「レッグ・スプリント」。脚のモデルを務めたのはチャールズ自身だったといわれている

1941年12月。アメリカは本格的に第二次世界大戦に参戦した。時勢に伴い、「レッグ・スプリント」は軍から大量の注文を受け続け、エヴァンス・プロダクツ社(※6)協力のもと大戦終結までに約15万個以上が生産されたという。この大量受注をきっかけに、戦時中の1943年、夫妻は「イームズオフィス」を立ち上げることになる。

※5 パウル・クレー(1879-1940)、ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)ピート・モンドリアン(1872-1944)は、19世紀末から20世紀中頃にかけて先駆的な抽象絵画を描いたことで知られる画家たち。

※6 ミシガン州を拠点とした1928年創業の木材加工メーカーで、初期のイームズの家具を生産していたことでも知られる。

「最小の材料で最大の顧客に最高の商品を」~チャールズ・イームズ

「まるでサーカス小屋」「ディズニーランドさながらだった」。後年、夫妻と共に働いた若い世代のデザイナーたちがそう証言しているように、「イームズオフィス」はデザインの実験スタジオのような場だったという。そこで、夫妻が戦後真っ先に取り組んだのが、「レッグ・スプリント」の成形技術を活かした椅子の製作だった。彼らはプロトタイプづくりと平行して顧客リサーチにも熱心に取り組んだ。年齢や体型もさまざまな対象者から椅子に座る姿勢を調査し、その平均値を割り出し、実際のデータをモノづくりに反映させる。イームズ式デザイン手法の始まりだった。

理系的ロジックに長けたチャールズと絵画的センスに優れたレイ。「イームズオフィス」では成形合板技術を用いて、おもちゃやゲームなども製作していた。チャールズは、普段から「彼女の方が何でも上手にできる」と、レイを頼りにしていたという。スタジオ内には常に「レイ!」とチャールズの助けを求める声が響き渡った

もうひとつ、夫妻がこだわったのが、「軽量かつ丈夫。低コストで大量生産可能な家具」を生み出すことであり、それはチャールズがモノづくりにおいて掲げた重要なポリシーだった。戦後、高度成長を遂げ急速に豊かになったアメリカでは、マイホームを持つ人々の間で家具の需要が高まりを見せた。誰もが手に入れられる高品質で機能的な椅子。2人はそんな椅子を作りたかったのだ。
 
そのため、「オーガニックチェア」で試みた1枚の合板を曲げて成形する背座一体型のデザインは手放した。一体型ではどうしても強度が不足したからだ。製造コストを上げれば実現できたかもしれないが、夫妻はその選択を選ばなかった。こうして生まれたのが、合板の木肌の美しさを活かし、人のカラダにフィットする美しい曲面をもった立体成形型の椅子「DCW(Dining Chair Wood)」(1945)だったのだ。

英語の「合板」を意味する「Plywood」に由来し「プライドウッドチェア」とも呼ばれる「DCW」。2021年現在の価格は一脚約16万円だが、誕生当時の価格は現在に換算して数万円程度だった。『タイム』誌による「20世紀最高のデザイン」(1999)にも選ばれている

シェルチェア誕生の背景

1950年、夫妻はまたしても画期的な椅子を世に送り出す。ガラス繊維などのファイバー(繊維)を複合し強度を補強したプラスチック(FRP- Fiber Reinforced Plastics)製の椅子「シェルチェア」である。この椅子は、1948年のMoMA主催の「ローコスト家具デザイン国際コンペティション」に出品した金属製のモデル(肘あて付)がルーツだ。ただし、入賞はしたものの、製品化するにはコストがかかりすぎた。そこで夫妻が目をつけたのが、航空機製造などに利用されていた新素材FRPだった。FRPは、ローコスト量産が可能で、かつシェル(貝殻)のような丸みを帯びた有機的な形状を実現することができた。当時はまだ色味にこだわった椅子も少なく、着色によりカラーバリエーションを揃えられることも魅力だった。
 
夫妻はまず1948年の出品作をモデルに工作紙でプロトタイプを作った。製作工程の中で、よりシンプルに使いやすくするため、肘あて部分はなくした。色出しにもこだわった。始めに作られた色、グレーベージュ、ライトイエローグリーン、エレファントグレー(淡い黒)の調合は難しく、工場で何度も失敗を繰り返したという。色出しについては、色彩感覚に優れていたレイが手腕を発揮した。
 
まだまだ木製の椅子が主流だったこの時代、「シェルチェア」はプラスチック製椅子の初の量産品となり、製品化されるやいなや瞬く間に注目を集め、家庭やオフィス、公共施設などで幅広く使用された。日本でも1956年に日本初のFRPチェアが誕生している。日本のプロダクトデザイナーの先達、剣持勇(1912-1971)が50年代初期にイームズオフィスから送られてきたシェルチェアを手本に考案したもので、現在もJR線の各プラットフォームのベンチとして活用されている。そして、世界一有名な椅子として知られるシェルチェアは、今でも多くのメーカーからレプリカが生産され続けている。

初代のシェルチェアは、4本脚のシンプルな仕様だった。その後、脚の部分にフックを付けることで、椅子の並列連結やスタッキング(積み重ね)も可能にするスタイルや、エッフェル塔の形状を思わせるエッフェルベースなど、脚部に多数のバリエーションが生まれ今に至る

その後も夫妻は、「ラウンジチェア&オットマン」(1956)やオフィスチェアの原点ともいえる「アルミナム・グループ」(1958)など、ミッドセンチュリー(※7)時代の名作を次々と世に送りだしていった。夫妻の活躍は家具製作だけにとどまらず、工業化住宅の実験プロジェクト「ケース・スタディ・ハウス」の一環となった自邸「No.8」の施工(1949)をはじめ、100本以上のショートフィルムの制作、写真、さらには展示会のプロデュースなど、さまざまな創作活動に携わったことでも知られている。

※7 1900年代半ばのアメリカで生まれた椅子や家具は、インテリア業界では「ミッドセンチュリー」スタイルと呼ばれる

モノヒストリー第4回はいまやインテリア業界の金字塔ともいえる「イームズ」を取り上げた。「イームズ」製品の正規品の多くは、1947年にチャールズが契約を交わして以来、現在も米大手家具メーカー(1923年創業)ハーマン・ミラー社が生産と販売を行っている。ベストセラー作品シェルチェアは、90年代に入り、環境への配慮からFRP素材からリサイクル可能なポリプロピレン素材に変更されたが、今なおあらゆるシーンで活用される汎用性の高い名作椅子であり続けていることに変わりはない。
(執筆/岸上雅由子、イラスト/東海林巨樹、監修/河内タカ、編集/メルカリマガジン編集部)

(参考文献)
「芸術家たち 建築とデザインの巨匠 編」河内タカ 著
「芸術家たち ミッドセンチュリーの偉人 編」河内タカ 著
「名作椅子の由来図典」 西川 栄明 著
「この椅子が一番!」  西川 栄明 編著
 
(参考/映画作品)
『ふたりのイームズ:建築家チャールズと画家レイ』
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