ホーム2021.08.25

インダストリアル・デザイナー・柳宗理が生んだ美しき日用品たち。使うためのデザイン「用の美」とは

試作品を作っては試行錯誤を繰り返す「手で考える」プロセスを使い、キッチンツールから家具まで数多くの生活用品を生み出したインダストリアル・デザイナー柳宗理(やなぎ・そうり/1915〜2011)。彼の手掛けたプロダクトは、デザイン性の高さを保ちつつも無機質にならず、手づくりの持つ温かみと、とことん突きつめられた使いやすさを併せ持つ。

丸みを帯びた曲線が見た目に美しいだけでなく、食材を切る、すくう、からめるなどツールとしても優れたカトラリー。腰かけるだけではなくサイドテーブルとしても生活に彩りを添えてくれる椅子。宗理は、私たちの暮らしの中に、機能性や装飾性だけにとどまらない使い手の立場に立った「用の美」をもたらそうとモノづくりに励んだ。

プロダクトが誕生するまでのストーリーやフィロソフィーにふれることで、モノの価値観について考える「モノヒストリー」。第5回は、彼のデザイン観を表す言葉と共に代表的なプロダクトを紹介していく。

バウハウスと日本各地の伝統工芸

1915年、柳宗理は「民藝運動」で知られる思想家・美術評論家の柳宗悦の長男として、東京・原宿に生まれた。「民藝運動」とは大正時代後期(1923年頃~)、当時の美術界ではほとんど評価されなかった無名の職人による生活工芸品に美を見出し、その価値を世に広めようとした活動。そのため宗理は幼い頃から、高価な古美術品ではなく温かみはあるが素朴な美を持つ日本各地の日用雑貨に囲まれて育った。後年、自身が振り返ったように、「年頃になって父に反抗した」宗理は、ファインアート(純粋芸術)に対し民衆の美を尊んだ父に背を向けるように、1935年(20歳)、東京美術学校(東京藝術大学の前身)西洋画科に入学。前衛芸術に惹かれた時期を経て、バウハウス(※1)や建築家ル・コルビュジエ(※2)の思想に影響を受けるにつれ、しだいにデザインに興味を持つようになる。

宗理がデザインの世界により足を踏み入れるきっかけとなったのが、シャルロット・ぺリアン(1903-1999)との出会いだった。ぺリアンはコルビュジエのもとで働いた経験を持つ家具・インテリアデザイナーで、1940年に日本の輸出用工芸品の発展を目指す「日本輸出工芸連合会」に招かれ来日した。大学卒業後、その連合会に勤務していた宗理は、彼女の視察に通訳兼ガイドとして同行し、1年以上も日本各地を巡ることになった。ゆく先々で竹細工など各地のさまざまな伝統工芸に直接触れたことで、宗理はあらためて民芸品の奥深さを理解する。また、図面だけに頼らず、技術者や製造者と意見を交わしながら試作を繰り返し、伝統技術のよい点を取り入れようとするぺリアンのモノづくりに対する姿勢にも心を動かされた。

※1) 1919年、ドイツ・ヴァイマルに設立された、美術(工芸・写真・デザインなども含む)および建築に特化した総合的な教育機関。合理性を追求する20世紀モダニズム建築・デザインの源流となった。

※2) フランスを拠点に活動したスイス生まれの建築家(1887 – 1965)。モダニズム建築の巨匠として、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと並び「近代建築の三大巨匠」として知られる

「用の美」をかなえる食器シリーズを考案

宗理は第二次世界大戦中、28歳(1943年)で陸軍報道部宣伝班員としてフィリピンに渡り、同地で終戦を迎えた。翌年の1946年、31歳で帰国。さっそくモノづくりを始める。宗理が最初に手掛けたのは食器だった。人々の暮らしに必要とされ、彼にとっても身近な日用品であったテーブルウェアは、物資も燃料も乏しい時代に「土」さえあれば焼くことができたからだ。同時に宗理がこだわったのは、多くの人の手に届けられるよう、工業生産可能なマス・プロダクト(量産品)を生み出すことだった。

「紙と鉛筆だけでは、デザインの基本的発想も、美しい形態も出てこない」。試作づくりを繰り返す宗理の手作業を大切にしたデザイン手法は活動初期から徹底していたようだ。デザイン画を描き、工場に持参し指示を出すだけではない。例えばコーヒーカップであれば、カップ本体は自らろくろを回して石膏モデルを作り、把手部分は石膏の塊から彫り出す。そして手作りした模型を実際に使ってみる。飲み口の厚さや手を添えた時の収まりのよさ、触り心地。使いやすさを極めるため何度も修正を重ね足掛け約2年をかけた「硬質陶器シリーズ」は1948年にようやく世に出た。

日本における西洋食器づくりを牽引した「松村硬質陶器」(1902年設立)から発売された「硬質陶器シリーズ」。発売当初は白無地の「半製品」と見なされ、注文を受けるのに苦労したという。1990年には「ボーンチャイナ・シリーズ」(ニッコー)として一部復刻されている

真っ白な無地のこのシリーズは「絵柄のない食器」としても画期的だった。当時は絵柄入りの食器が主流。その常識に反し、宗理は装飾を排した造形の「美しさ」と、日々の暮らしに結びつく「用」を兼ね備えたデザインを生み出すことに成功した。宗理の手掛けたテーブルウェアは、父・宗悦が説いた「用の美」を体現すると同時に、日本におけるインダストリアル・デザインの起点ともなった。

宗理デザインのアイコン、「バタフライ・スツール」の誕生

1950年代に入ると、日本は戦後の復興期から高度成長期へと移行。豊かさを取り戻した人々の暮らしはより西洋化し、「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)と共にインテリア製品も求められるようになった。宗理も、その頃から家具をデザインするようになる。1954年には木製の「折りたたみテーブル」と共に世界初の完全一体成型プラスチックスツール(※3)「スタッキング・スツール(エレファント・スツール)」を発表。そして2年後の1956年にはいまや宗理デザインを表すアイコンともなった名作、「バタフライ・スツール」が誕生している。

※3)強度の高いファイバープラスチック(FRP)製

合板2枚を広げて合わせた形状が蝶の羽のようにも見える「バタフライ・スツール」。「バタフライ・スツール」は、1958年にニューヨーク近代美術館「パーマネント・コレクション」に選定されている

実はこのふたつのスツールは第4回で紹介したイームズ夫妻の名作椅子から大きな影響を受けて生まれたものだ。宗理の父・宗悦は、チャールズ・イームズと親交を持ち、その縁から彼はアメリカに住むイームズ夫妻を訪れる機会を得た。その折、彼らの代表作である立体成形型の「レッグスプリント」や椅子「DCW(Dining Chair Wood)」(1945)、またFRP製の「シェルチェア」(1950)を目にし、とても感動したのだという。

プラスチック素材や合板を造形する成形加工技術にすっかり魅了された宗理は、帰国後、紙を切ったり折ったり曲げたりしながらデザインを探り、手ごたえを感じてはビニールシートを温めて形をつくる工程を延々と繰り返した。最初から明確に「椅子」をイメージして手遊びを続けたというよりは、成形加工技術を使って「どんなプロダクトが生み出せるだろう」と模索する過程を楽しみ、そこから生まれたのが共にユニークな造形のふたつのスツールだったのだ。

ロングセラーシリーズ、こだわりのカトラリーができるまで

キッチンツールにも、宗理デザインのアイコンともいえるプロダクトがある。今でも手軽に購入できるため、幅広い年齢層から親しまれている「ステンレス・カトラリー」だ。誕生の背景には、「金物の産地」燕三条(新潟県)(※3)のモノづくりの窮状を救うという目的もあった。1950~60年代、当地の洋食器業界は賑わいを見せていたが、70年代に入ると中国に市場を奪われ業界は傾いた。そんな状況の中、現在も「ステンレス・カトラリー」の製造を続ける燕三条の老舗メーカー「日本洋食器」の親会社「佐藤商事」(本社・東京)は、百貨店での商品展開を見込み、宗理に新しいプロダクトのデザインを依頼したのだという。

宗理はいつものように模型を作っては燕三条の工場に持ち込み、何度も修正を繰り返していった。「機械時代においてデザイナー1人だけではよい製品は生まれない」と語っていた宗理は、各領域のスペシャリストや技術者の意見を尊重し、彼らとのやりとりを大切にした。一方で、口当たりのよさや手に持った時の心地よい重さなどを配慮し、ステンレス板の厚みの上限規格を変えるなど、現場泣かせのこだわりも見せた。通常、スプーンやフォークの生産工程は高級品でも8工程程度といわれるが、このシリーズは最終的に約50工程にまで達したという。

傷が目立たないよう、つや消し加工を施した「ステンレス・カトラリー(左)」と、柄の部分をカバ材の積層材で仕上げた「黒柄カトラリー(右)」。カトラリーはツールとしての性質上、鋭利的で冷たい印象を与えがちだが、宗理のデザインはぷっくりと丸みを帯び、親しみのわくフォルムに仕上がっている

1974年に発売された「ステンレス・カトラリー」は人々から好評を得たが、思わぬ落とし穴も待っていた。東南アジアで質の悪い模倣品が出回り始めたのだ。そこで宗理のもとに、「簡単には真似のできないカトラリーの新シリーズをつくってほしい」という新たな依頼が持ち掛けられた。宗理は、「柳工業デザイン研究会」(※4)のデザイナー友岡秀秋(ともおか・ひであき※5)を引き連れ燕三条の工場へ向かった。工場内の木工所で木材に樹脂を浸みこませた黒い積層材(※6)を見つけた友岡に、宗理は「あの黒い素材は面白い。明日からやってごらん」と声をかけたという。

「柳工業デザイン研究会」の事務所兼工房の壁には、大小さまざまな形の工作ツールが掛かっていた。初期段階にはボール紙やスチロールを使うこともあったが、木材や石膏、ワイヤーなどを使い宗理は数多くの縮小模型を作り続けた

こうして宗理の適切な舵取りのもと、若きデザイナーが「黒柄カトラリー」の完成に向けて動きだした。使い手にストレスをかけないよう、ステンレス本体と黒い積層材を段差なくなめらかに接合させるのは至難の業で現場との密な連携が続いたというが、2年余りの歳月と50本近くの模型を経て、1982年に「黒柄カトラリー」が完成した。自ら現場を行き来するプロセスの中で、友岡は「デザインによって造るのではなく、造ることによってデザインが生まれる」という宗理の信条を身に染みて実感したと語っている。

※4)1950 年に柳宗理によって設立されたデザイン事務所。現在も東京都新宿区・四谷に所在し、宗理のプロダクトの管理や監修を行なっている。

※5)1978~88年、「柳工業デザイン研究会」に在籍。その後、フリーランスデザイナーとして活動。2004年~愛知県立芸術大学美術学部教授(2020年退任)。

※6)木の板や小角材を重ねて張り合わせた木材

復刻版も発売された愛らしいセロファンテープ・カッター

小さなゾウをイメージさせる「ロータリー・テープ・ディスペンサー」。本体は耐久性に優れたメラミン製。金属球を用いて回転させる「ボールベアリング」構造になっている

もう一点、知る人ぞ知る宗理のステーショナリー(文房具)も紹介しておきたい。1963年に発売された「ロータリー・テープ・ディスペンサー」だ。名前の表す通り、回転式(rotary)のセロファンテープ・カッターである。象のような形をしたこのカッターは360度回転するという優れもので、オフィスのデスクの上に置いておけば、使い手がどの方向からでもテープを切り取ることができる。2020年には文具メーカー「コクヨ」から復刻版が発売され、製作過程でオリジナル版が3Dスキャンされたが、手作り模型から生まれたことを物語るように、そのフォルムは微妙に左右対称ではなかった。

60年以上の長きにわたり幅広いフィールドで精力的にデザイン活動を続けた宗理は、そのほかにも高速道路の防音壁、歩道橋などの公共施設をはじめ「札幌冬季オリンピック」(1972)の聖火台やトーチホルダーなどさまざまな工業製品を手掛けている。その間、彼は常に行き過ぎた商業主義に異を唱え続けた。「すぐに変えなきゃいけないデザインなんてのは、デザインじゃないよ」。企業が新商品を売るために毎年、少しずつデザインを変える経済システムにデザイナーが加担せざるを得ないことを嘆いていたという。

そんな宗理のプロダクトには、キッチンツールにロングセラー商品が多い。活動後期に手掛けた「ステンレス・ケトル(※7)」(1994)、「ミニパン」(2002)などの鍋類、また1960年から愛されている「ステンレス・ボール」など。宗理は料理もワークショップの一環ととらえていたようだ。柳工業デザイン研究会の作業場では、宗理も含め毎日所員たちが交代で昼食を調理した。その席で試作中の器を実際に用いながら、所員たちと意見を交わすことも多かったらしい。こうした日々の地道な仕事を通して、宗理はつねに売るためのデザインではなく、使い勝手のよいデザインにこだわり続けた。

モノヒストリー第5回は日本におけるインダストリアル・デザイナーの先駆者、柳宗理を取り上げた。最後に、モノづくりに携わる人なら誰の心にも響くであろう、こんな言葉を紹介してこの回を終わりにしたい。


「地球上の限られた資源を使わせてもらう以上、生活に役立つ質のよいものを造らなければならない」 ~柳宗理~

※7)1963年に発売された「早く沸くヤカン」のデザインを踏まえて、改良された商品。オリジナルは本体内部にドーナツ形の空洞があるため、火が早く回ることでお湯を沸かせやすく、お湯になってもさめにくい構造となっていた。

(執筆/岸上雅由子、イラスト/黒木仁史、監修/河内タカ、編集/メルカリマガジン編集部)

(参考文献)
「別冊太陽 柳宗理」(平凡社)
「芸術家たち 建築とデザインの巨匠 編」(アカツキプレス)河内タカ 著
30 件

WRITTEN BY

メルカリマガジン編集部

誰かの「好き」が、ほかの誰かの「好き」を応援するようなメディアになりたいです。

好きなものと生きていく

メルカリマガジンは、「好きなものと生きていく」をテーマにしたライフスタイルマガジンです。いろいろな方の愛用品や好きなものを通して、人生の楽しみ方や生き方の多様性を紹介できればと思います。