「住宅は住むための機械」という理念に基づいて考案されたのが、当時の最先端素材「スチールパイプ」を用いた椅子や、シンプルな意匠の照明器具などだった。装飾性を抑え機能性を優先したそれらのデザインは、現代に暮らす私たちにとっては美しく感じられる。だが、西洋建築の歴史を重んじる価値観をもつ当時の人々にとっては、彼の建築・芸術に対する考え方も、生み出した作品も容易には理解しがたいものだった。
プロダクトが誕生するまでのストーリーやフィロソフィーにふれることで、モノの価値について考える「モノヒストリー」。「わたしたちの眼は純粋な形に狂喜する」。第6回はそんな言葉を残したル・コルビュジエゆかりの家具に焦点をあてながら、彼の生涯を辿ってみたい。
外出時はスーツに蝶ネクタイという姿がトレードマークだったというル・コルビジェ。毎朝6時に起き、柔軟体操を終えると午前中はキャンバスに向かい絵を描いて過ごした。画家としての顔を持つ一方、建築界で力を持つアカデミズムに対抗するため、国を越えて建築家たちが連携を取り合うグローバルな集まり「現代建築国際会議(CIAM)」(1928年第一回実施)をヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエらとともに設立するなど、つねに権威と闘っていた
モダニズム建築を目指すパリの反逆児
伝統的な木造建築の多い、スイス北西部のラ・ショー=ド=フォンの街並み。日本の校倉造りに見られる高床式の建物もあり、柱で上層階を支えるル・コルビュジェ建築の特徴となったピロティのルーツを、故郷の伝統建築に見る専門家も多い
20代になるとル・コルビュジエは貪欲に建築的素養、知識を吸収するため修行を重ねた。レプラトニエの紹介で鉄筋コンクリートにいち早く着目していた建築家オーギュスト・ペレのパリの事務所に入り研鑽を積む一方、ベルリンの建築家兼デザイナー、ペーター・ベーレンスのアトリエにも籍を置いた。また半年かけてイタリア、東欧、ギリシアなどをめぐり、多くの歴史的建造物の存在感に圧倒されたという。なかでもアテネのパルテノン神殿にはことのほか心を動かされ「パルテノンの出現は私をうちのめした」という言葉を残しているほどだ。
1917年(30歳)、地元でいくつか個人宅を手掛けたとはいえ、まだまだ駆け出しの若い建築家にすぎなかったル・コルビュジエは故郷を後にし、大都会パリに移り住む。最初の数年間は経済的にも苦労し、不摂生な生活の中、網膜剥離を起こし左目の視力を失うなど不運にも見舞われた。だが、パリの前衛芸術家アメデエ・オザンファン(※1)やパブロ・ピカソ(※2)らと親しく交流するようになり、1920年には、総合芸術雑誌『レスプリ・ヌーヴォー(=新精神)』を創刊する。ちなみに「ル・コルビュジエ」という彼の通称は、この雑誌で使用していたペンネームから生まれた。その由来は、母方の祖父の名前「ルコルベジエ」にゆかりがあるとも、鼻のとがった面長の横顔がカラスを思わせることからフランス語の「コルヴォ/Corbeau(カラス)」からきているともいわれる。
(※1)フランスの画家、美術理論家(1886-1966)。ル・コルビュジエとダダの詩人のポール・デルメと共に『レスプリ・ヌーヴォー』を創刊。また、彼と共にキュビズムの流れを汲みつつ、より純粋に幾何学的視点からモノの形をとらえる「ピュリスム(純粋主義)」を提唱した。
(※2)スペイン生まれ、フランスで活動した画家(1881-1973)。対象となる人やモノを一つの視点からではなくさまざまな角度から捉え、絵画上で構成する「キュビスム(立方体派)」手法を生み出した。
当時のヨーロッパの建築法は、古代ローマ時代から続く「石造り(石積み)」が主流。だが、産業革命を経て、工業化の進化による機械時代を迎えようとしていたその頃、新たな素材として鉄やコンクリートを建築に使用する技術も発展を遂げつつあった。すでにル・コルビュジェはスラブ(床板)、柱、そして階段を建築の主要要素とする鉄筋コンクリートの骨組み構造「ドミノシステム」を考案していたが、建築界のアカデミー(学会)の人々には受け入れがたいものだった。そこで、無名でも野心だけは人一倍あるル・コルビュジエは、建築界の権威に反旗を翻すかのように、『レスプリ・ヌーヴォー』誌上で昔ながらの古い建築法を否定し、歯に衣着せぬ発言を繰り返した。旧体制からの批判を受けつつも世間の注目を集めだした彼は、1922年(35歳)にいとこのピエール・ジャンヌレとともに建築事務所を設立。しばらくは仕事にも恵まれず苦労を重ねるも、同郷の銀行家ラウル・ラ・ロッシュ(※3)の後ろ盾を得たことをきっかけに、少しずつ自分の思い描く「新しい住まい」を手掛けるようになっていく。
(※3)スイス人の銀行家でありアートコレクター(1889-1965)。ル・コルビュジエはパリの高級住宅街16区に彼の兄アルベール・ジャンヌレのために外見は1つだが2つの邸宅からなる「ラ・ロッシュ+ジャンヌレ邸」(1925)を手掛けた
「装飾は死んだ」~ル・コルビュジエ~
人びとが快適に幸せに暮らすためには、室内においても機能的で実用的な仕掛け、家具が必要となる。暮らし方においても革命を起こそうと考えたル・コルビュジェは、1925年、パリ万国博覧会において、アール・デコ調の展示だらけの中、いっさい装飾のない白い箱型の住居『レスプリ・ヌーヴォー・パビリオン』を出展。パリを超高層ビルで埋め尽くす『ヴォアザン計画』という都市改造案の発表と併せ、賛否両論を巻き起こした。
レスプリ・ヌーヴォー・パビリオン(再現)。装飾の多いキラキラした派手なパビリオンが多い中、この建物は、異彩を放った。館内の半分のスペースでは都市計画を、残るスペースにはダイニング、リビング、キッチンなどを配し、一住戸のモデルルームのような空間で新たな暮らし方を提案した
(※4)バウハウスの同僚であった画家のワシリー・カンディンスキーの誕生日に贈ったことから名付けられた。発表当時の名前は「クラブアームチェアB3」
ル・コルビュジエが新素材で人間工学的にも優れた椅子づくりを模索していた折、彼の著書に衝撃を受け、事務所を訪ねてきた女性がいた。駆け出しのインテリアデザイナーのシャルロット・ぺリアン(1903-1999)である。
著書とは、前述の「住宅は住むための機械である」と記された『建築をめざして』(1923)と「装飾は死んだ」という彼らしい辛辣な表現を収めた『今日の装飾芸術』(1925)の2冊。ぺリアンは、彼の提唱する革新的な考えに共鳴。のちに自伝の中で「(彼の本を読んだとき)未来の前に立ちはだかる壁を越えられる」ような気がしたと綴っている。ペリアンは24歳、ル・コルビュジエは40歳だった。
名作寝椅子「LCコレクション」誕生
3人の協働から生まれた家具の中でも代表作としてとくに名高いのが、「ドシエ・バスキュラン」「グラン・コンフォール」「シェーズ・ロング」という3点の椅子だ。1929年、パリの「サロン・ドートンヌ(秋のサロン)」での出展で公にお披露目され、いずれもニューヨーク近代美術館(MoMA)所蔵作品となった。
「ドシエ・バスキュラン」は、フランス語の意味する「傾斜/上下移動」の名の通り、座った人の姿勢に併せて背もたれが回転して動くリクライニングチェア機能を持つ。インドに駐留したイギリス軍の折り畳み椅子をヒントに発想されたという、コンパクトな椅子
現在では「LC2」として親しまれる「グラン・コンフォール」。「サロン・ドートンヌ」発表直後、ドイツの家具メーカー「トーネット」社(1819年設立)で生産されたものの一部の顧客にしか購入されなかった。その後、本格的に生産を請け負うメーカーは現れず、世の中の多くの人に認知されるには発表から約35年の歳月を待たなければならなかった
そしてル・コルビュジエが「休養のための機械」と呼んだのが、90年以上経った現在でも「世界一有名な寝椅子」と評価され続ける「シェーズ・ロング(長椅子)」だ。体の線に合わせて緻密にデザインされた座面と背面が一体となったカーブ。それを下部で支える弓型のパイプを動かすことで、身体を預けた時に、心地よい角度に調節することができる仕組みになっている。
現在では「LC4」として親しまれる「シェーズ・ロング」。彼の代表建築「サヴォア邸」(※5)の浴室には、この椅子とほぼ同様のカーブを描いたバスタブの縁がデザインされている。毛皮の選定など、官能性を盛り込んだシャルロット・ぺリアンの功績も大きい作品
(※5)フランス、パリ郊外に建てられた鉄筋コンクリート製の個人住宅(1931)。1926年にル・コルビュジエが提唱した「近代建築の五原則(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、自由なファサード、水平連続窓)」を体現した設計となっている。
幾何学の原形を活かしたコンパクトな照明器具
(※6)ル・コルビュジエ最初の公共建築。パリ南部のジャルダン国際大学都市の敷地内に建てられたスイス人留学生のための寄宿舎。
ル・コルビュジエ建築の代表作のひとつとなったフランス・マルセイユの「ユニテ・ダビタシオン」(18階建て、337住戸)。完成は1952年。その後、フランスの2都市およびドイツ・ベルリンに計4カ所建設された。各部屋には、両面カウンターの機能的キッチンをはじめさまざまな工夫が凝らされている
(※7)ル・コルビュジエが考案した人間にとって理想となる建物の寸法を示したもの。「module=寸法」と「Section d'or=黄金分割」というフランス語を掛け合わせた造語。人が立って片手を挙げた時の指先までの高さ(ヨーロッパであれば226cmセンチ)を最大値に肘まで、胸まで等々、各々の比率を計算し、それらの数値を用いて人が動きやすい寸法の空間や家具を考案した。
ル・コルビュジェは室内用の家具も手掛けており、なかでも注目したいのがマルセイユの「ユニテ・ダビタシオン」向けにデザインした「ランプ・ド・マルセイユ・ミニ」である。
下向きのシェードからは直接光、上向きのシェードからは関節光を放つ「ランプ・ド・マルセイユ・ミニ」。自由に向きを調整できる可動範囲の広いアーム部分も特徴だ。イタリアの照明器具ブランド「ネモ」社(1993年設立)から復刻され、現在も販売されている
「私たちの目は、光の中で形を見るようにできている。立方体、円錐体、球体、円柱体、ピラミッドなどは、光が有利に作用する偉大な原形であり、私たちにとってあいまいさのない、明確で具体的なものだ。だから美しい。最も美しい形なのだ」
ル・コルビュジエはパリで暮らし始めた30代、友人であった画家のオザンファンと「ピュリスム(純粋主義)」という新しい美のとらえ方を提唱した。瓶やグラス、水差しなど身の回りにあるものを立方体や円錐形など幾何学的原形でとらえ直し、絵画上で簡潔に構成する手法だった。「幾何学こそは人類の偉大なる創造であり喜びである」。その思いは、30年以上を経ても彼の中で変わることなく、21世紀の現代においても色あせない照明器具を生み出すことになった。
妻へのプレゼント、LC14 カバノン
わずか10畳ほどの広さしかない質素な小屋で使うため、ル・コルビュジエは立方体そのものの素朴なスツール「LC14 カバノン」やキノコ型のカラフルなフックを持つコートラックなどをデザインした。
カッシーナ社の「LCコレクション」から復刻生産されている木製のスツール「LC14 カバノン」。カバノン=CABANONとは小屋の意。「モデュロール」を基準に設計され、各木板の継ぎ目には「ダヴテール(和名=蟻ほぞ継ぎ)」という接合方法が使われている。取手用の穴が6面にしつらえられているので、持ち運びしやすく、縦にも横にも自由に配置することができる
大きな心の支えとなっていたふたりの女性を失いつつも、70代のル・コルビュジエは長年精力を注いできたインドの新都市チャンディーガルの都市計画および主要建築物の設計やヨーロッパ各地での大規模な展覧会をこなしながら、毎夏、カップ・マルタンの休暇小屋に通い続けた。残された映像の波打ち際に座るル・コルビュジエの後ろ姿からは、彼がいかにこの海を愛したかが伝わってくる。
彼は幾何学的な数や比例の法則は、自然界のあらゆる造形物の中にひそんでいることを信じてやまなかった。稀代の建築家ル・コルビュジエは1965年8月27日、奇しくもカップ・マルタンの地で亡くなった。77歳だった。彼はいま、この村の地中海を見下ろす丘の上の墓地に、妻イヴォンヌと共に眠っている。
(参考文献)
「ル・コルビュジエ 生涯と作品」林美佐 著
「芸術家たち 建築とデザインの巨匠 編」河内タカ 著
「名作椅子の由来図典」 西川 栄明 著
「天才たちの日課」メイソン・カリー 著
「シャルロット・ペリアン自伝」シャルロット・ペリアン著 ほか
(参考/ドキュメンタリー)
Le Corbusier 50: stories of encounters that have revolutionised design,