木の温もりを生かしたシンプルかつ流線型のフォルムを持つアームチェアや3本脚が美しいスツール。湖や花びら、オーロラなど、見る人により変幻自在にイメージを変えるガラスの花瓶。「北欧の賢人」と呼ばれた建築家アルヴァ・アアルト(1898-1976)は、生まれ育ったフィンランドの大自然をモチーフに、機能的でありながら人にやさしいデザインのプロダクトを世に送りだした。
彼が建築家として活動を始めた時期は、独立間もないフィンランドの建国期にもあたる。高度成長を遂げようとする母国で、アルヴァは建築家でデザイナーでもあった妻アイノ(1894-1949)と共に、人びとの暮らしをよくするための病院や図書館などの公共施設や家具づくりに励んだ。
プロダクトが誕生するまでのストーリーやフィロソフィーにふれることで、モノの価値について考える「モノヒストリー」。第8回はフィンランドはもとより北欧建築・デザイン界をリードしたアルヴァとその妻アイノの足跡を追ってみたい。
国土の大半を森林が占め、氷河に削られて形成された湖が無数に点在する森と湖の国フィンランドに生まれたアルヴァ・アアルト。「アアルト(Aalto)」はフィンランド語で「波」を意味する。豊かな自然環境によって培われたその感性は、設計・デザインのインスピレーションの源として多くの代表作品に生かされることになった。
アルヴァとアイノ、ふたりが学んだヘルシンキ工科大学
フィンランドは当時ロシア帝国の支配下にあったが、父ヨハンは、フィンランドの独立を目指し奮闘する政党の党員でもあった。1903年、ヨハンが町議会議員に選出されたことから、一家はクオルタネから美しい湖が街の中心に横たわるユヴァスキュラ(フィンランド中部)に移り住むことになった。
アルヴァはその街で多感な青春期を過ごした。最も熱中したのは絵を描くことだった。その腕前は地元の新聞社にも認められ、17歳の頃には挿絵を任されるほどだったという。また、9歳の頃にはすでに建築に興味を示したという逸話も伝わる。父ヨハンの購読雑誌に掲載されていた、モダニズムの原点を築いたフィンランドの建築家エリエル・サーリネン(1873 - 1950)の建築写真に魅了されたというのだ。
父親譲りによる製図の高い技術と持ち前のデッサン力を併せ持ったアルヴァは、こうして建築家を志すようになり、1916年、ヘルシンキ工科大学(現アアルト大学)※に入学。翌年の1917年、フィンランドがついにソ連(旧ロシア帝国)から独立をはたしたため、直後の内戦では、アルヴァ自身も独立支援の運動に参加したという。また、在学中には早くも建築家のもとで学び、両親の家も設計している。
この激動の時代、アルヴァの入学に先駆けること1913年にヘルシンキ工科大学の建築科に入学していた女性がいた。のちにアルヴァの妻となるアイノ・マルシオである。アイノは1894年、ヘルシンキに生まれている。鉄道会社職員の父のもと、13人もの子供たちで賑わう大所帯の家族の中で育った、自立心旺盛な女性だった。アルヴァと4歳年上のアイノは同時期に大学に在籍していたが、ふたりが大学内で出会っていたかどうか、確かな記録は残っていない。だが、フィンランドの研究者たちは、アルヴァが学内でも目立つ人物だったことから、少なくともアイノは彼の存在を知っていたのではないかと推測している。二人はこの大学で、バロックやルネサンス様式を受け継ぐ新古典主義の建築様式を学んだ。
※ヘルシンキ工科大学(1849年創立)、ヘルシンキ経済大学(1904年創立)、ヘルシンキ美術大学(1871年創立)の3つの大学は2010年合併。首都ヘルシンキに所在。大学名はアルヴァ・アアルトの名にちなむ。
患者を思いやる安楽椅子「41 アームチェア パイミオ」
大学卒業後、アルヴァはスウェーデンの建築設計事務所に勤務していたが、1923年、仕事を得たことをきっかけに再びユヴァスキュラに戻り、自身の事務所を立ち上げた。そして翌年のはじめ、アシスタントスタッフの人材募集を出し、その求人に応募してきたのが大学卒業後、内装や家具デザインの仕事を通して経験を積んできたアイノだった。
「アルヴァはコミュニケーション能力が高く、その場の状況や人に応じて、俳優のように努力せずとも自分を変えることができるカメレオンのような人でした。一方、アイノはもの静かで堅実な女性。二人の性格は全く違っていましたが、だからこそバランスを取り合いながら、素晴らしい仕事を成し得たのでしょう」。~「アイノとアルヴァ 二人のアアルト」~
後年、アルヴァの孫ヘイッキ・アアルト=アラネン(母がアアルト夫妻の長女)が語ったように、華やかで社交的なアルヴァと地に足のついたアイノはお互いに自分の個性にはない部分を認め合い、惹かれあったのだろう。アイノの入所から約6カ月後、二人は結婚。夫婦としても仕事上でもお互いに欠かせない強いパートナーシップが結ばれることになった。アルヴァは最初のキャリアが築かれたこの時代、初期の代表作、「ユヴァスキュラの労働者会館」(1924-1925)をはじめ、約4年の間に数多くのプロジェクトに携わったとされている。
アイノとアルヴァ。アイノは女性建築家の先駆的存在としてインテリアと家具デザインに才能を発揮、ビジネス面においても天才肌のアルヴァを支える頼もしいパートナーだった。21世紀以後、研究者によってアアルト作品のなかでアイノが果たした役割についての検証が進められている
長女も生まれ、家庭も仕事も充実し始めていた1927年、アルヴァはフィンランド南部の国際都市トゥルクの建設コンペティションで優勝。それに伴いアアルト夫妻は拠点をユヴァスキュラからトゥルクへと移した。進歩的なこの街で、アルヴァは新たな顧客を開拓し、積極的に人脈を築いていく。そんな中出会ったのが、北欧の木材の性質、中でもバーチ材(カバノキ科の広葉樹)の特性を知り抜き製造技術にも精通していた家具職人オット・コルホネン(1884-1935)だった。自身の事務所を設立して以来、建築や家具デザインの可能性を広げようと、木材曲げ加工技術の実験を人知れず続けてきたアルヴァにとって、既存の概念にとらわれずパイオニア精神に富んだコルホネンは頼もしい協力者となった。
コルホネンとの出会いから約2年後の1929年、アルヴァは、パイミオ市(フィンランド・スオミ県トゥルク郡)が主催したサナトリウム(結核療養所)の建築コンペティションで一等を獲得し、建物・内装のみならず、療養患者のための安楽椅子のデザイン設計を手がけることになった。
全病室に日光が射しこむよう設計されたパイミオのサナトリウム(1929年に着工し、1933年竣工)。暖房や換気システムをはじめ、照明器具から洗面台、病室ドアの取っ手に至るまで、療養患者が使いやすいよう細やかな工夫が施された。アイノも館内の色彩設計に協力している
バウハウス出身の建築家兼デザイナー、マルセル・ブロイヤー(1902-1981)が「ワシリーチェア」(1925)※を発表して以来、当時、多くの建築家がスチールパイプ製の椅子をデザインしていた。だが、アルヴァはそこに患者に寄り添う視点を採り入れる。
「管状のスチール製の椅子は、軽く、大量生産に適しているなど、技術的、構造的に見てもたしかに合理的です。しかし、スチールやクロムなど金属による表面は、人間の視点から見ると満足のいくものではありません」 ~アルヴァ・アアルト~
アルヴァは試作を重ねる中、療養患者の身体への負担を軽減するために優しく温かみのある木材を使うことを思いつく。コルホネンの協力を得た彼は、バーチ材を木目が同じ方向を向くようにして何層も積層し、曲げ加工した大判の成形合板を開発。1932年、その技術をデザインに活かし、1枚の積層合板からなる背もたれと座面、そしてフレームまですべてを木材で仕上げた安楽椅子「41 アームチェア パイミオ」を完成させる。
継ぎ目がない背座一体成形製法によって完成した「41 アームチェア パイミオ」(1932)。座面は木材製のためしなやかに弾力性を持ち、肘掛け部分に手を置くと療養患者が楽に呼吸ができるようデザインされている
※スチールパイプ製のフレームに革製の背もたれ、座面、アームが取り付けられた椅子。発表当時の名前は「クラブアームチェアB3」。
シンプルな3本脚の「スツール60」の誕生
「パイミオのサナトリウム」が完成した1933年。アルヴァはコルホネンと共に「41 アームチェア パイミオ」で使用した木材曲げ加工技術をさらに発展させ、「L−レッグ」と呼ばれる手法を開発、その特許を取得している。
「L−レッグ」は、椅子の座面と脚の接続部の強度を高める技術だ。一本のまっすぐな無垢材(天然木を加工した自然木材)の先端に複数の切込みを入れ、熱と水を用いて木を柔らかくした後、その切込みに接着剤に浸した薄いベニヤ板を挟む。ベニヤ板をサンドイッチの具のように無垢材に挟むことで、通常なら90度に曲げると折れてしまう木材の脚を補強し、L字型に曲げることを可能にしたのだ。
「家具のデザインにおいて、垂直部材と水平部材をどのようにつなぐかは、歴史的にも実用面でも基本的な問題です。それがスタイルを決定づけるといってもいいでしょう。水平部分と接続しているという点で、椅子の脚は、建築における柱の妹分のようなものなのです。
~アルヴァ・アアルト~ ~「アイノとアルヴァ 二人のアアルト」~
こうして生まれたのが、3本の脚だけで支えるシンプルなデザインの「スツール(半角スペース)60」(1933)だった。このスツールは、「パイミオのサナトリウム」と同時期に並行して建設が進んでいたフィンランド湾に面した都市ヴィープリの「新中央図書館」(1927-1935)向けに作られたもので、建物の完成時にはホールなどに大量に設置された。
「L-レッグ」の特許技術を用いた「スツール60」(1933)。1933年にロンドンの老舗デパート「フォートナム&メイソン」での「ウッドオンリー展」で初公開され好評を博し、イギリスでのアアルト家具人気の火付け役となった
また同時期、すでに拠点をトゥルクから首都ヘルシンキへ移していたアルヴァは、フィンランド有数の実業家アールストロム家の相続人でありアートコレクターであったマイレ・グリクセン(1907-1990)と美術史家のニルス=グスタフ・ハール(1904-1941)、そして妻アイノと共に家具ブランド「アルテック(Artek)」(1935)を設立している。アルテックの社名はArt(芸術)とTechnology(技術)に由来し、販売事業のみならず、芸術と技術の融合を試みる機能的な家具を通して、人々の暮らしにモダニズム精神を普及させることも目的としていた。
「スツール 60」は、そんなアルテック※のブランドアイコンとして世界中に発信され、誕生から90年近く経った現在でもいまなお多くの人に愛され続け、同社の創業以来、800万脚以上もの売り上げを誇るロングセラーとなっている。
※スイス出身の建築家ル・コルビュジェ(1887-1965)による代表作「サヴォワ邸」は1931年竣工。装飾を排した鉄筋コンクリート造りによるモダニズム建築が時代を席巻しつつあった。
※2013年からはスイスの家具メーカー「ヴィトラ(Vitra)」(1950年創業)社の傘下となって今に至る。
アアルト夫妻が生んだガラス器の名品たち
「スツール 60」完成から約3年後、アルヴァは再び北欧デザインを象徴する代表作を生み出すことになる。ガラス製の花瓶「アアルトベース」だ。フィンランドでは独立後に各地で起こった急速な都市化、小規模住宅の増加に伴い安価で使いやすい生活用品、中でもガラス器の需要が高まった。そんな世相を受け、ガラス器製造会社のカルフラ=イッタラ社(1881年創業/現イッタラ社)は大量生産に対応できるガラス製品のアイデアを募るため、1932年からデザインコンペティションを開催するようになっていた。
はじめに入賞したのは妻のアイノだった。アイノはアルテックの初代デザインディレクターに就任後、アルヴァの仕事を支えつつも内装・インテリアの領域でその才能を開花させていた。1932年のカルフラ=イッタラ社初のコンペティションではプレスガラス部門で第2位に入賞。製品化された各種ガラス器は、少しずつ改良され、現在イッタラ社から「アイノ・アアルトシリーズ」として販売されている。
「アイノ・アアルトシリーズ」のルーツとなる、1932年のカルフラ=イッタラ社のコンペティションで入賞し製品化されたガラス器「ボルゲブリック」(スウェーデン語で水紋の意)シリーズ。子どもが濡れた手で触っても滑りにくいよう波型のディテールが採用され、スタッキングし重ねて収納しやすいよう機能面でも工夫がされている
そして1936年、同じくカルフラ=イッタラ社のデザインコンペティションで大賞を獲ったのが、アルヴァだった。「エスキモー女性の革ズボン」というユニークなタイトルがつけられた応募案は、北欧の先住民族サーミの伝統的な民族衣装から着想を得たとされている。
ガラスを流し込む型には木製の型が使われた。現在は金型が主となったが、今でも特別な場合にかぎり木型が使われているという。金型では、ガラス表面が均一になめらかに仕上がるが、木型では熱の影響で木が焼けることでガラス表面に微妙な波型の質感が生まれるのだという。
アルテックが内装を担当したフィンランドのレストラン「サヴォイ」の設計時に制作されたことから、「サヴォイベース」とも呼ばれる「アアルトベース」(1936)。1937年開催のパリ万国博覧会において浅皿から花瓶まで約10種類のヴァリエーションが出品され、世界各地のバイヤーから注目を集めた。現在もイッタラ社より生産、販売されている
森の中に佇む湖にも、木の幹にも、またオーロラにも感じ取れるなど、様々なイメージをかきたてられる有機的造形の「アアルトベース」。現在でも、一定量は人の手によって製造されており、アルヴァのデッサン時の筆づかいがいまだ伝わってくるような芸術的プロダクトである。
博覧会での成功、そして世界的活躍
「アアルトベース」が出展された1937年のパリ万国博覧会、続く1939年のニューヨーク万国博覧会と、アルヴァは妻アイノと共にフィンランドパビリオンの設計・内装においても手腕を発揮した。ニューヨーク万国博覧会では近代国家としてのフィンランドを強くアピールするため、波打つ曲面の壁でオーロラを表現するなど自然をモチーフに壮大な空間を演出し、そのデザインは国際的にも高く評価された。この博覧会では、アルヴァがアイノと共にデザインした重ねると花のように見えるガラスの器「アーロン・クッカ(アアルトの花)」も発表されている。
家族ぐるみで親交の深かったアルテックの共同設立者マイレとその夫ハッリ夫妻のために、初期の頃の最高傑作として名高い「マイレア邸」(1939)を設計したのもこの頃だった。アルヴァは日本を訪れたことはなかったが、木や竹など自然素材を活かした和の様式にはとても関心を抱いていたという。その嗜好は、アアルト夫妻が暮らした「アアルト自邸」(1936)に続き、「マイレア邸」の内装デザインにも随所に活かされた。共に、アルヴァが手掛けた住宅建築の代表作として今なお見学に訪れる人が後を絶たない。
アアルト夫妻が暮らしたヘルシンキ郊外ムンキニエミの「アアルト自邸」(1936)内部。リビングルーム中央にアイノの写真が飾られたグランドピアノ、アルヴァのデザインによるゼブラ柄ファブリック仕様の「400 アームチェア・タンク0」が置かれている。大きな窓には木製のすだれ、奥の部屋との仕切りには引き戸と各所に和のテイストが感じられる。※2003年撮影写真を引用
アルヴァはその3年後の1952年、建築家エリッサ・マキニエミ(1922-1994)と再婚。だが、新しい家を建てることなく、アイノと暮らした「アアルト自邸」に住み続けた。リビングルームにあるアイノ愛用のグランドピアノの上には、彼女の写真が飾られたままだった。アルヴァはその後、後期を代表する作品、ヘルシンキの芸術施設「フィンランディア・ホール」(1971)を手がけるなど、国内外で活躍を続けたのち、1976年に78歳で死去。生涯に約200を超える建物を設計したとされる。
(執筆/岸上雅由子、イラスト/黒木仁史、監修/河内タカ、編集/メルカリマガジン編集部)
「アイノとアルヴァ 二人のアアルト」アルヴァ・アアルト財団 編
「ザ・フィンランドデザイン ~自然が宿るライフスタイル~」展公式図録
「芸術家たち 建築とデザインの巨匠 編」河内タカ 著
アルテック公式サイト
https://www.artek.fi/jp/
イッタラ公式サイト
https://www.iittala.jp/