井上陽水の言葉と音楽に魅せられ、『井上陽水英訳詞集』を上梓したロバート キャンベルさん。その深い眼差しは、復刻版レコードの歌詞カードに書かれた、陽水さん直筆の文字にまで及びます。既成のフォントよりも「本人の気持ちや、歌詞の世界をもっと理解できる」と語るキャンベルさん。手書き文字から浮かんでくる、歌の中の意外な「主人公」像について聞きました。(編集/メルカリマガジン編集部、撮影/草場雄介)
手書きの歌詞を味わう復刻版レコード
井上陽水さんの歌詞を英訳し始めたのは、2011年のことでした。重い感染症を患って、50日くらい入院をした時のことです。今まで、何気なく聴いてきた曲の歌詞を読んだ時、すっと心に入ってきて、誰に頼まれるということもなく、1日1曲ずつ訳したのです。その時はタブレットで歌詞を検索していました。
退院した後に、ふと思い出したことがあります。そういえば、昔、陽水さんのレコードには手書きの歌詞がついてきてたような……。僕が聞いていたのは、カセット時代で、そのあとはCDに移行して、いまはストリーミングで聴いています。カセット時代以降、歌詞はすべて手書きではなくなりました。パソコンで使われる文字で印刷されたものか、スマホの画面に映るものしかないんですね。
そこで、退院してから本人に聞いたら、確かにレコード時代は手書きの歌詞をつけていたというので、復刻版のレコードを送ってくれたんですね。それが、今日持ってきた「陽水Ⅱ センチメンタル」です。僕が大好きな「つめたい部屋の世界地図」が収録されていて、「東へ西へ」など英訳したいと思っていた曲がたくさん収録されている一枚です。僕の家には、レコードプレーヤーがないので、レコードを聴くことはできません。だから、歌詞を読むためにあるんですね。
直筆を読んでいると発見が多くあります。この字をみてください。陽水さんの字は独特でしょ。陽水さんの声も決して美声ではないという話をしましたが、この字も一般的に言われる綺麗な字ではないと思うんです。でも、とても味わい深いんですね。直筆を読むことで、本人の気持ちや、歌詞の世界というのをもっと理解できるんです。
これは、僕が専門的に読んでいるくずし字―現代の日本人がほとんど読めない字ですね―を読むのと同じだと言えます。江戸時代にくずし字で書かれた本は、自筆で書かれた自筆稿本、手書きで誰かが写した写本。木版に彫って印刷した版本に大別できます。
僕たちは、手書きで書かれたものをより大事にして、研究しています。本人が直筆で書いた本というのは筆圧、筆の運び方が中身と密接に関わってくる場合があります。写本であっても、誰に伝えたいのか、誰に向かって写しているのかで違いが生まれます。
僕はずっと日本語というのは文字のゆらぎや筆圧に、書いた人の感情や情動がとても乗りやすい言語だと考えてきました。だからこそ、同じ人で書いていても、たとえば多くの人に今年の年貢を告げる公文書の筆遣いと、特定の誰か一人に伝えるために文章を書くときの筆使いはまるっきり違う。これがとても面白い。
19世紀の大半は音声メディアがない時代です。明治時代以降、浪曲や演説が録音されるようになって、音声で伝える技術が飛躍的に発展しますが、それ以前は存在しなかった。だからこそ、僕たちは言葉を考えるときに、まず文字を見るんです。自筆の文字から読み解けるものを探っていくんですね。
美声と、クセになる声には明らかな違いがあり、そのどちらも良いと言える。これと同じことが文字にも言えます。『雨月物語』で有名な、上田秋成という小説家がいます。彼は手を子供の時に感染症で指に障害を負ったこともあって、悪筆なんです。今の時代のようにパソコンなんてありませんから、筆一本で自分を表現するしかない。
でも、悪筆であることをダメなことだとは思っていないんですね。周囲も本人も悪筆であるということは自覚している。そして、悪筆をアイデンティティの一つとして、大事にしている。うまいこと、美しいことが全てではないんです。
日本語は、長い歴史を持つ言語です。新元号以降、万葉集がブームになっていますね。そこで使われている万葉仮名は、漢字一字を一音に当てているんです。そもそもの漢字の意味とは必ずしも関係がなく、音だけで表そうとしています。それを発展させていくと、現在のひらがなや片仮名になる。表音文字である仮名、くずし字で書かれた仮名はどこか音楽的です。音というのをとても大事にしていた言語だからです。
「ガンバレ、みんなガンバレ」は単純なエールではない
陽水さんの直筆の歌詞を眺めていると、くずし字を読んでいるのと同じような感覚を味わえます。彼が書いている文字は音楽的で、彼の作品世界とどこかで重なってくるように思えるんですね。
「東へ西へ」の有名なサビである「ガンバレ、みんなガンバレ」も、この文字で読むと、単純なエールだとは読めない。どこかアイロニーがあって、歌詞を素直に受け取ってはいけないような気がしてきます。文字から浮かんでくるのは、どこか世間を冷めた目でみている主人公の姿です。
音楽を録音して伝えるという表現手段は、明治以降のものですが、文字と作品世界がつながってくるというのは日本では古くからあることなんです。このレコードのなかで書かれている直筆の歌詞は、単に印刷されたものより、はるかに多くのことを僕たちの教えてくれます。僕にとって、とても大事な一枚です。
ロバート キャンベル Robert Campbell
日本文学研究者 国文学研究資料館長 東京大学名誉教授 人間文化研究機構 副機構長。ニューヨーク市出身。専門は江戸・明治時代の文学、特に江戸中期から明治の漢文学、芸術、思想などに関する研究を行う。テレビで MC やニュース・コメンテーター等を つとめる一方、新聞雑誌連載、書評、ラジオ番組出演など、さまざまなメディアで活躍中。主な出演番組に、 「スッキリ」(日本テレビ系)コメンテーター、「Face to Face」(NHK 国際放送)MC、主な編著に『井上陽水英訳詞集』(講談社)、『東京百年物語』(岩波文庫)『ロバート キャンベルの小説家神髄 現代作家6人との対話』(NHK 出版) などがある。