初めて原宿に降り立った時、「ここはボクの来る場所じゃない」って思った。
街ゆく人は地図なんか見ずに目的地まですーっと歩いていく。しかも雑誌で見た「限定コラボ」の服を着ていたりする。どこからそんなお金が出てくるんだ? こっちは、12時間の労働を対価に得た福沢諭吉を握りしめ、ようやくこの場所に立っているのに。
燃え殻と呼ばれる遅咲きの小説家は自分の青春時代をそう振り返る。現在、46歳。若き日を振り返った『ボクたちはみんな大人になれなかった』を上梓したのは42歳の時だった。
「自分にとって青春っていうのは、26歳ぐらいなんだけど」と、小さく笑いながら話す。
10代の頃はひきこもりのように過ごし、20代前半は労働に明け暮れた。
「会社に入って少し落ち着いたころ、ようやく遊びに出られた。自分が青春と呼びたいのは26、7歳だった98年〜99年くらい。高校の時にみんなが聴いていたバンドとか雑誌とか、そういうのをどうにか回収しようと古本屋とかレコファンに通った」
あの時、なんとかすがりついた「青春の残骸」を探してみよう。郷愁に駆られるだけかもしれない。でも、何かがわかる気がした。この曖昧な興味をもとに、昔よく来た上野の純喫茶でiPhoneにインストールしたメルカリをタップする――。
裏原宿の「REVOLVER」のTシャツとカツアゲ、GAP前のスナップ
1998年、26歳になっても東京に憧れがあった。上京するとかそんなストーリーがあるわけでもない。自分が住んでいるのは横浜のはずれで、インスタ映えしない錆ついた街だった。東京は手が届きそうで届かない場所。ちょっと電車を乗り継げば到着してしまう。実家から出ていく覚悟もない自分には、よく似合っていた街だったのかもしれない。かといって居心地がいいわけではなく、「ここは退屈だ、抜け出したい」と思っていた。
だからなのか、東京で流行っているモノが欲しかった。
モデルのARATAが裏原宿に「REVOLVER」という店を出したらしい。きっと地元にいるヤツらはREVOLVERなんて知らない。裏原宿と言えば、A BATHING APEが一番人気だったけれど、みんなと違うモノを選びたかった。
「REVOLVERのオープン記念で限定のTシャツが販売されたんですよ。男友だちと一緒に買いに行こうねーって約束して、意を決して原宿に行った」
行列に数時間並んでようやく入り口にたどり着く。洞窟のようなデザインの自動ドアが開くと、忙しそうにレジを打つARATAと共同オーナーのKIRIがいた。
「オープン直後だからお店に立っていたんだと思う。雑誌で見た2人がそのまま無表情で店頭にいて、レジで袋を閉じてくれるんですよ。一切話しかけないし、作り笑顔もしない。媚びない感じでかっこよかった」
店を出るとすぐに声をかけられた。REVOLVERの袋を持ってるから、限定Tシャツを買ったことは一瞬でわかったのだろう。路地へ連れ込まれて聞かれた。
「何買ったんだ?」
「Tシャツです」
「袋開けろ」
「はい」
「サイズは?」
「Mです」
「……わかるよな?」
路地の多い裏原宿は死角ばかりで為す術がなかった。同じMサイズを着られる体格の男は、東京の人という感じで、やたらと強そうだった。友だちも仲良く一緒にTシャツを奪われた。
「僕、カツアゲされたんです。26歳にもなって。すげー恥ずかしかった。でも、そのまま帰れなくて。なんか爪痕を残したかった」
ラフォーレ前の交差点はスナップ撮影のメッカだった。ファッション誌の人たちがセンスのいいダイヤの原石を発掘する場所であることぐらい知っていた。Tシャツ1枚カツアゲされるヤツの服なんて、たかが知れている。でも、箸は無理かもしれないが、棒くらいならかかるかもしれない。誰かに声をかけてほしくて、GAP前を無駄に5周くらい回った。
結局誰にも声をかけられなかった。この街に自分は必要ないのだ。けれども後日、性懲りもなく小山田圭吾が履いていたアディダスのスニーカーを求めて原宿に繰り出した。新品は流石に買えないと腹をくくり、ようやく古着屋で見つけたそれは、高すぎて買えなかった。
「イタい思い出しかないですね。でも、わかってるヤツになりたくて一生懸命だった」
20年経った2019年、メルカリで「REVOLVER Tシャツ」と検索する……あの日カツアゲされたTシャツは1000円で売られていた。
コラージュ癖とフリッパーズ・ギター。「小山田圭吾に憧れすぎて、パリのトイレに行きたかった」
今のようにSpotifyやYouTubeはもちろん、iPhoneやTwitterもない90年代末。好きな音楽に浸るのも一苦労した。でも、労力の分だけ深くてかっこいいモノに出会えるような気がした。そしてそれを身に纏う「わかっているヤツ」になりたかった。
「小山田圭吾になんて、なりたいに決まっている。小山田さんを真似してアニエスベーのベレー帽をちょっと横にずらしてかぶってたぐらい。『CAMERA TALK』のスリーブ写真は、パリのトイレで撮影されているんですよ。僕はパリのトイレに行きたかった。フリッパーズは都会の人。わかってるヤツだったの、2人とも」
錆びれた地元にある、演歌歌手のポスターが店頭に貼られたCDショップ。レジ前に貼られた予約一覧からフリッパーズ・ギターの字を探して、「注文表」にアルバムタイトル、グループ名、発売日を書いてレジに提出した日々を懐う。店番をしているおばあちゃんは「なんなのよ、このフリッパーズ・ギターっていうのは」と、彼女にとっては見慣れないカタカナを眺めながら受付をしてくれた。
発売当日、予約した『ヘッド博士の世界塔』を店頭に取りに行くと、欲しくてたまらなかったフリッパーズ・ギターのポスターが特典でついてきた。赤が目を引くデザインに、モノクロの2人が写っている。部屋に貼った時はさすがに惚れ惚れした。
「フリッパーズ・ギター ポスター」を検索窓に打ち込み、タイムスリップした世界を歩くようにiPhoneをスクロールする。
「あの子はどんなポスターを部屋に貼っているんだろう? ダサいのだったらどうする?」
そんなの、どうだっていいじゃないか。今なら笑い飛ばせるが、当時は本気で悩んでいた。青い感情がフラッシュバックする。懐かしさが並んだ画面を眺めているといろんなことを思い出す。
「僕ね、コラージュするのが好きだった」
学習机特有の、透明なゴム製のシート。本来は時間割や配られたプリントをいれておくためのものだろうが、自作のコラージュをはさんでいた。学校なんてずっと昔に卒業していた。
「誰にも見せるわけじゃないから、自意識がそこで爆発していた。映画のチラシでしょ、JamiroquaiにBeckでしょ。小山田さんが聴いた方がいいって言うから、『これが最高』って言い張って、アルバムのジャケットをコピーするの。1回10円払って」
Beckの『Odelay』のアルバムジャケット、『スタジオ・ボイス』の表紙、ラリー・クラークの映画『キッズ』のチラシ。渋谷系バンドのネロリーズを真似して「写ルンです」で撮影した自分の写真を忍び込ませて「コピー」のボタンを押した。
A3いっぱいに敷き詰められたモノクロの世界。それを家に持ち帰ってハサミで切ってはコラージュを作った。共有する友だちや彼女はいなかった。寂しくなかったわけがない。とはいえ、心の底では「どうかみんな知らないでいてくれ」と思っていた。
『スタジオ・ボイス』が好きだって言いたかった
わからないモノをわかりたくて足掻いていた。
「自分よりちょっと上に、手の届きそうな人がいて、でも感性もお金もないから絶対に手は届かない。だから、その人が好きなモノを好きって言っていた」
『スタジオ・ボイス』なんて1行も読まないのに買っていた。ラリー・クラークの映画の面白さなんて今でもわからないけど、全部観た。
雑誌のバックナンバーを買うためだけに、横浜のはずれから電車を乗り継いで神田の古本屋街に通った。仕事でもないのに「資料を集める」と言い張って、電車賃と時間をかけて古本を探し求めたのだ。
周りで読んでる友だちは少ないし、今必要な情報が書かれているわけではない。でも、『スタジオ・ボイス』を持ってさえいれば、わかっているヤツになれそうな気がした。
わかりたい。この思いは暫し奇行に走らせた。
1998年公開の『ガンモ』。猫を肉屋に売って生計を立てる少年が、浴槽で食事をとるシーンに憧れた。正直、この作品の奥深さや緻密に計算された構成なんてわからない。映画を何度も見られるほどの財力はない。でも、とにかく近づきたかった。
そうだ。ボクも風呂でパスタを食べよう。
近所のampmでミートソースを買ってきて風呂で胃にかきこむ。今、冷静に自分の行動を振り返ると、ダサすぎて失笑してしまうけれど、当時はとにかく「それがすべて」だった。
それでも奮発して買ったものがある。ボンダイブルーのiMacだ。透けてるものは全部かっこよく見えた。スケルトンのSwatch、ゲームボーイ、バンダイのマイクリスタル。透けてるだけで「他人と違う」感じがあった。
ちょうど一人暮らしを始めたばかり。17万円ほどの価格設定は、さすがに痛手だったけれど、満足した。
iMacは部屋の真ん中に置こう。そうすれば、美しい後ろ側が見えるだろう。人が部屋に来たら「自分はMacのある家に住んでる。都会派だ」と、胸を張れる気がした。ポストペットぐらいしか使わなかったけれど、スケルトンの美しいボディをずっと眺めていた。
ただ、ワンルームの中央にでかでかと鎮座するそれは、寝るスペースを確実に奪った。
iMacが置かれたローテーブルの下に身体を通し、まるで十字架に磔されたみたいに、身体を固定されながら眠りにつく。マウスだって使いづらかった。美しさだけを求め、人間工学を無視したかのような丸いデザインは、手にフィットしなかった。それでも全然良かった。
青春時代、欲しいモノが溢れてた
約20年、映像業界で働きながら、ここ数年は作家としても仕事をするようになった。肩書きだけ見れば、過去の自分が納得してくれるかもしれない。
けれども給料が振り込まれて「さて、何に使おうか?」と考えた時に、何も思い浮かばない。Apple Watch? 高性能なカメラ? そういえば、巷で「欲しい」と言われるのは機能的なモノになった。手に入れたらきっと便利だろうが、「最近、物欲がなくなっちゃって」と言ってしまう自分がいる。
僕は満たされたのか? いや、そうじゃない。
「今は『いい』と思ったモノはすぐにシェアしてしまって、それで満足してしまう。でも当時は誰にも言わない自分だけの世界が欲しかった。青春時代にほしかったモノって、自己承認とか、かっこいい大人になりたいっていう願望を満たしていたのかもしれない」
純喫茶に通っていたのもそんな理由だった。雑誌でインタビューに応える大槻ケンヂが、かっこよさのフル装備で話す様に憧れた。本当はマクドナルドや吉野家で腹を満たしたかったけれど、純喫茶でナポリタンを食べてクリームソーダを飲む。こういう所で時間を過ごせば「わかってるヤツ」になれる気がしたのだ。
正直な人間になるよりも、自分が憧れる人間になりたかった。
映画も古本も音楽だってみんなそうだった。それから20年経った今、メルカリで「あの頃」を覗いて見る。今でも全然わからなかった。
「いつかわかるんじゃないかと願ってすがりついた。今、こうして振り返ると、わからないことがわかった。何にも役立ってないし、ルサンチマンだって解消されてないけれど、あの頃足掻いていた自分とか努力が尊くて仕方がない。その尊さを青春と呼びたい」
今日も純喫茶でナポリタンを食べる僕は、あの日ボクが憧れた大人にはなれなかった。世紀末を生きる自分がタイムマシンに乗ってやってきたら「えー」と落胆するだろう。でも、そんな過去をどうして否定できようか。
青春の残骸は確実に今を作っているのだから。
(編集/メルカリマガジン編集部、撮影/熊田勇真、サムネイル写真/Sean Pavone Shutterstock.com)
燃え殻(もえがら)
1973(昭和48)年神奈川県横浜市生れ。都内のテレビ美術制作会社で企画デザインを担当。2017(平成29)年、ウェブサイト「cakes」での連載をまとめた『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説デビュー。『文春オンライン』にて人生相談コーナーを担当。現在、『週刊SPA!』にてコラム「すべて忘れてしまうから」、『yomyom』にて小説「これはただの夏」連載中。